一番バッターの橋田は、いつもよりバットを短く持っているように思えた。しかし三組の誰もそれに気付かない。
ピッチャーの福田は初級から悠々とストライクをとってきた。ほぼ真ん中だったが、橋田は見逃した。どことなく前回より余裕があるように見えた。
福田は前回と同じように投げていればそれ程打たれることはないと感じている。そうなるかどうかは、なかなかの見ものだと、私は思った。
二球目は大きく高めに外れて、三球目は初級と似たようなところに来た。橋田はバットを叩きつけるような感じで振って、ライナー性の打球がセカンドを超えたところで落ちた。
一見まぐれにしか見えない橋田のヒットだった。始まったばかりだが、それでもちょっと前とは違うなと、福田は思ったかも知れない。バットの出が妙に鋭いのだ。
二番の福永に萩野が耳打ちした。福永は元々野球センスが良い。手頃な球を選んですんなりバントを決めた。ややサード側に転がった球を福田が駆け寄って捕りファーストへ送ったが、慌てたせいか大きく逸れてファーストの浅丘が捕れず後ろに転がった。
球は植え込みに潜り込んでしまった。四組が一斉にグルグルと腕を回す。浅丘が探している間に橋田が一気にホームまで駆け、福永がサードに達したところでようやく茂みから出てきた。
四組から拍手と歓声があがった。女子たちもキャーキャー言っている。
しかし私はタイムをかけた。
「今のはボールが一時行方不明になった結果なので、ホームは認められません。塁をひとつずつ戻します」
橋田が怒った。「なんやて!」
「抗議は許しません、自分が審判です」
萩野が詰め寄ってきた。「なんや急に、その尤もらしい言い方は」
私は無言で首を振った。
萩野は睨むように言った。「まあええわ、それ、三組にも適用するんやろな」
私は澄まし顔で答えた。「当然…!」
このようなルールを先に決めていた訳ではないが、見えているボールを追いかけている間のことはともかく、公園は植え込みが多いので行方不明が普通にある。その間に点が入ってしまうのでは面白くないと私は感じていた。
少しわざとらしかったが、これは四組の私が決して四組の贔屓をしない宣言のようなものだった。もっとも、先に伝えて置くべきではあった。
徳田はしかめっ面で私を見つめていた。----あいつはこの前ライトを守ってたひよこやな、にわか審判が生意気なことをするやんけ----と顔に描いてあった。
多分徳田にとっては勝ち負けは二の次だ。というより勝つことは織り込みだ。それよりも水口の前で自分が格好良く打つかどうかだ。しかし水口は未だ姿を見せない。時々チラチラと、女子たちに視線を送る徳田を私は見逃さなかった。
三番の櫻井が、俺が決めてやるとばかり打席に入った。ノーアウト二三塁のチャンスだ。こんな場合、草野球ではどこに転がしても一点入る可能性がかなり高い。浅いフライでアウトにならねばよい。櫻井は四組では一応強打者だ。
福田はインコースに二球投げた。サード側に打たせて、守備のうまい徳田に処理させようとの狙いだった。ふたつとも外れて、櫻井はちょっと下がって遠目に構えた。それを見た福田は今度は外に投げてきた。それを踏み込んで、櫻井は右に強いゴロを転がした。
橋田は一目散にホームめがけて走った。ファーストの浅丘がやや深いところで捕ったがホームにもサードにも間に合わず、ファーストのカバーに入った福田に投げて、私はアウトを宣告した。
四組が一点先制した。福田のエラー絡みだが、とにかく劣勢が予想された四組が一点を先に取った。四組女子から一斉に歓声があがった。しかもまだワンアウト三塁。もう一点入るチャンスだ。
萩野がバッターボックスに入ろうとしたとき、徳田がタイムを要求して福田に駆け寄った。
「なんとなく前とちゃうで、あいつら当ててきよるぞ」
浅丘も駆け寄った。「どっかで練習してると篠田が言うとったな」
徳田は不満顔だ。「なんでうちはせえへんかったんや」
浅丘はムッとした。「そんなん今言うても」
徳田は無視するように言った。
「萩野やし、一点は覚悟で行こ。まだ一回やから、アウト増やすんや」
福田が頷いた。まるで徳田が主将のような雰囲気だ。
様子を見ていると、篠田が後ろからこっそり声をかけてきた。
「水口きたで、彼氏といっしょや」
私は振り向いて水口を認めた。いとこと思しき、水口より頭半分背の高い丸刈りの中学生と並んでいる。徳田はどうやらまだ気付いていない。
私は篠田に頼んだ。
「塁がややこしいかも知れんからファースト辺りで見ててくれへんか」
「はいよ主審…」篠田は笑った。
頃を見計らって私は叫んだ。「もうええか、プレー行くで」
二人が守備位置に戻って私はプレーをかけた。
萩野は主将でもあり、それなりに強打者だ。しかも徳田が萩野を怒らせているので要注意だ。
これまで皆当ててくるバッティングだ。しかし練習の成果なのか、意外に打球が強い。萩野もそうかも知れない。振り回してこないとなると、打球はセンター中心だろう----と徳田は読んだ。
福田が投げようとしたその時、萩野がいきなりタイムを要求した。私は慌てて両手を広げてタイムを宣した。
「すまん、急に股ぐらが痒いなったんや」
萩野は急所の付近を大袈裟にゴシゴシ掻き始めた。
「なにかに噛まれたみたいや」
応援の女子たちがそれを見てケラケラ笑っている。
演技臭いと思ったが、私はジョークを飛ばした。
「お前、ちゃんとパンツ履き替えてるんか、虫湧くで」
萩野は怒鳴り返した。「お前はどやねん」
いささか汚い話だが、当時の大方の子供は下着は銭湯で交換するものだった。それが特に上流でないガキどもの習慣だった。そして銭湯はだいたい三日に一度だった。
これはむしろ当然で、一般家庭が毎日銭湯へ通ってなど居られないのだ。
無論女子のことは知らないが、私は風呂嫌いで、もっと長く行かないこともあった。
私は萩野にバッターボックスに入るように即した。
「早くバッターボックスに、あんまり掻きむしっていると血が出るで」
何のまじないか、萩野は股ぐらでバットの握りを擦りながら徳田を見つめた。そこへ行くぞという合図のように。
そんなベーブ・ルースのようなことができるのかはともかく、ひとしきりゴシゴシやって萩野はボックスに立った。
福田も浅丘も妙な顔でこれを眺め、徳田は腰に手を当てて眉をしかめていた。
私は右手を挙げて気合を入れるように叫んだ。
「プレー!」
続きます。