雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

水色の日傘--52

興行的に大成功だった。きっと三日分くらいの売り上げがあったのではないだろうか。それを思うと嬉しかった。明日はまた会えるのだ。私は、多分篠田もそうに違いないが、ママさんに生意気にも無邪気な恋心を抱いていたのだった。齢と言っても、多分まだ二十歳代だった。スラッとした細面で、今でははっきりしないが、髪を後ろで束ねていた。少なくとも同年齢当時の私のお袋よりは遥かに美人だった。 

篠田とは昼一時過ぎに待ち合わせていた。私は明日の情景を勝手に思い受かべて眠った。ワクワクしてなかなか寝付けなかった。どこに住んでいるのかも知れない。きっと昼食を摂ってから出て来るのだろう。他の公園を回ったりしているのでそう遠くはないはずだ。少なくとも去って行った方向だけはわかる。あちらの方には何があったろうか。

子供の頃は相対的に街が大きい。幹線道路を一つ越えれば別の学校があり、普段見かけない子供たちが遊んでいた。私は物心付くか付かぬかの頃にその辺のボロアパートに住んでいた。兄は別の区域の小学校に通っていた。小さな公園もあり、子供も沢山居た。もしかしたらその辺に住んでいるのだろうか。そんなことをぼんやり考えながらいつしか眠った。夜の十時頃には大方の人が眠っていた時代だった。

 

翌朝、我が家は日曜日だけパン食だった。父はテレビで政治番組を見ており、私は関心もなくパンをがっついて外へ飛び出した。勿論公園に向かった。まさかママさんはいない。来るのは昼過ぎだ。でも昨日の余韻があった。その余韻が私を引っ張った。朝なので公園にはまだ遊ぶ人の姿は少なかった。もちろん篠田も居ない。どこからか時折幼児の声が聞こえる。その遠鳴りのような感じが妙に心地良かった。

ホームベースの前に立ってぼんやり昨日のシーンを思い浮かべた。吉田が滑り込んできて萩野と際どいタイミングになって私はアウトを宣した。が三組から抗議されてジャンケンになった。結局四組の勝ちで終わったが、もし完全なセーフになってあのままゲームが続いて居たらどうなっていただろうか。ゲームは丁度良いタイミングで終わったのだった。

両組の女子たちも集まってかなりの人数だった。こんなことはきっともうないだろうと思った。何年か、何十年か経った後、私はきっとまたここを訪れる。今この場所に立っている自分をその時にまた思い出すのだ。そんなセンチな感情に浸った。ガキの癖に、私はそんな子供だった。

 

一旦家に戻って宿題のほんの一部に手を付けて、全然捗らないまま趣味のプラモデルなどをいじったが、とにかく集中しない。気がそこにないのだ。ぼんやり漫画雑誌などを寝っ転がって読んだりしてとにかく時間を過ごした。そしてようやく昼を過ぎ、やや遅くなった昼食を食べるや否や再び家を飛び出した。

玄関を何軒か右に行った曲がり角からもう公園の入り口が見える。小走りに向かうと、そこに篠田が立っていた。私を待っていたようだ。

「お、篠田」

声をかけようと思ったら、篠田の顔が妙に険しい。首を振って手を横に振っている。

「なんや、どうしたんや」

篠田は指を口の前に立てて顔をしかめた。

「し~っ!」

「なんやし~って」

「ええから黙れ」

一体何があった。わからないまま私は篠田の態度にむくれた。

「ええからこっちこい」

篠田は公園の中に入らぬようにして私の手を引っ張った。周囲をグルッと回って、木陰に身を隠すように止まった。そこからママさんが見えた。見えたのはママさんだけではなかった。おまわりが居たのだ。

 

私は小声で篠田に疑問をぶつけた。

「どういうこっちゃ」

「俺も来た時ビックリしたんや。おまわりに誰か言うたんやろ」

「それでなんでおまわりが来るんや」

「免許やろうな」

「なんや免許て」

「なんも知らんやっちゃなお前、その辺で勝手に物売ったらあかんのや」

「他にも屋台で売ってる奴おるやんけ」

「あれは免許持ってるんや、どっかに貼っつけたあるはずや」

「ママさんは持ってなかったんか」

「多分な」

「どないなるんや」

「知るかいな。もしかしたらこのまま引っ張って行かれるかも知れんで」

「警察へか」

「他のどこへいくんや」

篠田の顔は曇っていた。見つかったらまずいからとずっと隠れているように私に命ずるように言った。

「ひょこひょこ出て行って余計なこと聴かれたらどうしようもないで」

昨日のことがまた浮かんだ。目立ったのかも知れない。それで周辺の誰かが言いつけたのだろうか。

「あっちの公園のおっさんかも知れんな」

「揉めた言うてた屋台のおっさんか」

「商売の邪魔やと思うたかも知れん」

かも知れないと私も思った。とにかく今はわからない。偶然おまわりに見つかったのか別の誰かが通報した可能性もあった。

 

息を止めるようにして見ていたら、ママさんは何度も何度も頭を下げて、手帳に何か控えていたおまわりは小声で何かを呟いていたが、そのまま引き上げて行った。ママさんはまったく萎れた雰囲気で機械を片付け始めた。

「連れて行かれることはないみたいやな」

ホッとしたように私は言ったが、篠田はもう少し用心深かった。

「それはわからん、後で来いと言うことかも知れんし」

成る程そうかと思いつつ、うつむいたままのママさんの表情が私の胸を打った。もしかしたら涙を堪えていたのかも知れない。

「罰金取られるかな」

「わからんな、そうなったらせっかく商売になったのに台無しや」

私たちは言葉もなかった。

ママさんはそのまま日傘を差して肩を落として出口に向かって歩き始めた。子供がやっぱりママさんの腰の辺りに手を添えて事情をどう呑み込んでいるのか、一緒に歩く姿が痛々しかった。

 

「どうする、行ってしまいはるで」

「あっちに回ろ」

篠田とさっき遭遇した公園の出入り口だった。

「見たことは内緒や、きょう初めてみたいな顔しとけよ」

その方が良いと私も思った。今の経緯など見たとは言えない。

ママさんが出入り口に差し掛かった頃、僕たちが偶然を装って飛び出した。

「あ、ママさん」

二人そろって声が出た。

ママさんは一瞬ビックリしたが、ちょっと笑ったようでもあった。が、直ぐに目を伏せて歩き始めた。昨日から子供にくっ付いていた篠田が小さな麦わらを被った子供の頭をそっと撫でた。子供はほんの少し笑みを浮かべた。篠田は訊いた。

「どうしたん、きょうはもうお店せえへんの」

ママさんは黙って頷いた。

「わー、残念。でもなんで」

今度は私が訊いた。

しかしママさんは

「ちょっと都合が悪くなってね」

とだけ言ってまた黙った。昨日の朗らかさは全く消えていた。

声もなく私たちは歩いた。屋台のオッサンだけじゃなく、もしかしたら昨日のことで、周辺の大人の目障りになった可能性も、これは本当にあり得ると思った。自分が何も困らないのに、いっちょう通報したれ、なんて大人が世間には居ることは子供でもちゃんと知っている。

氷を買って戻ってくる途中で遭遇した機嫌の悪そうなオバハンも気になった。どんな事情があるのかわからないが、ママさんはあのオバハンにも何度か頭を下げていた。何らかの良くない関係にある。それだって告げ口しそうだった。可能性は幾つもあった。

 

しばらく歩いて大きな道路の手前まで来たところでママさんが僕たちを振り返った。

「悪いけど、ここでね、ちょっと寄り道して帰るからね」

着いてくるなと言うのだった。

篠田が思わず訊いた。

「ママさん、ぼくら、悪いことしたんとちゃうやろか」

ママさんは一瞬立ち止まったが、直ぐに振り向いて笑顔になった。そして首を何度か小さく横に振った。そしてまた歩き始めた。交わった大きな道路を右に曲がってそのまま遠ざかって行った。

午後二時ごろの強い日差しに包まれて、水色の日傘がママさんのワンピースに濃い影を落としていた。篠田と私はそこで立ち止まってママさんの後姿をしばらく眺めた。

私は堪えきれなくなって叫んだ。

「ママさーん!また来てくれる」

篠田も叫んだ。

「またね!またきてね」

ママさんは振り返ることなくそのままずっと歩き続け、私たちはずっとそれを眺めていた。交わる別の大通りのところ、昨日萩野と走った場所で左に曲がって通りを渡り、建物の陰に消えた。

それが私たちがママさんを目撃した最後だった。

 

続きます。