雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

飯田木工所の赤木さん--28

嫁は以後顔を見せなくなった。このことでなにやらあるかと思ったが、特になかった。さすがにいきなりのあからさまはできなかったのだろう。

専務は机に座っていることが多くあまり仕事場に姿を見せない。そこで何をやっているのか、元々仕事らしい仕事をしていないのだが、その方が良かった。顔を見るだけでうんざりしてしまうので、それを見ることのない日は婆さんが煩いにしても一応平和だった。

赤木さんは黙って材料の切りだしをやっていて山ちゃんは組み立ての準備をしている。準備と言ったって何ほどのことはないのでこの段階では幸平は概ね赤木さんを手伝っている。仕事の最中は機械の稼働音がうるさいので大声を出さねばならないしそもそもあまり話すことはないが、たまにタイミングで世間話をふっても「あー」とか「うー」が返ってくるだけで普通の話にならない。休み時間であっても一般的な会話はあまり成立しない。そこだけをみると赤木さんは明らかに愚鈍だ。

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飯田木工所の赤木さん--27

嫌な予感がした。たった今の専務の顔。完全に邪推して憎悪に歪んだ顔だった。今でさえ敵意を持たれている。以後は倍するかもしれない。そうなったとき、さらに我慢するのか。倅というだけのあんな若造、いくら使われている身だからといって、なんでそこまで我慢する。幸平の頭にはいざとなったら居直ってやろう。逆にこっちが怒鳴りつけてやるんだと、そんな考えが浮かんでいた。専務を怒鳴りつける自分の姿さえ思い浮かんだ。

帰り道、自転車を漕ぎつつあたりの風景を眺めて、周辺の事業所と思われる建物を探すのだった。あそこにだってもしかしたら求人の貼り紙があるかもしれない…。働き口のない人間の、これが情けなさだった。兄の洋平がもしマネージャーになれたらどれくらい給料があがるのか、いやいや、そんな増加分などしれている。いくらでもないはずだ。だいいちなれるのかさえまだはっきりしない。幸平は兄ほど気楽な性格ではなかった。だから、次の目当てがない限りはなるべくの我慢をするしかないのだった。さりとてどうやって仕事を探すのか。職安も求人誌もほぼ無意味。これは経験だった。走りながらも同じことばかりあれこれと考える。

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飯田木工所の赤木さん--26

赤木さんが川原の土手に降りてなにやら激しく怒っているのがその後も時折見られた。幸平は多少それが気になるのだが、わざわざ赤木さんの居ない時にその場へ行って何をしているのかを確かめるのはやっぱり躊躇われた。しかも、そこでいつ赤木さんと鉢合わせするか知れたものじゃない。

が、他の誰もは関心すらないようだった。あいつのことなんか知るかと、山ちゃんも鈴木さんもそんなところだった。ここで他人に関心など持ったって…、幸平もそう思うのだが、謎ではあった。謎は気になるものだ。

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飯田木工所の赤木さん--25

現状はそれなりの蓄えがある。母には遺族年金があるし兄の洋平も働いている。そこに幸平のバイトの賃金を足せば現状それほど苦しくはない。だが先を考えるといささか心もとない。

兄は一応社員扱いになっているが寸志があるだけでボーナスはない。マネージャーになれそうだと浮かれてはいるが、そもそも業態からして長期働けるかどうかは疑問だ。わかっていることは住宅ローンが延々続くということだけであり、わからないのは明日の自分たちだ。実際幸平自身住宅を購入したばかりで会社を去ることになるなど想像もしなかった。明日は誰にもわからない。だから、少々のことがあっても我慢はするのだと自分に言い聞かせるのだが、労働の苦しさよりも劣悪な雇用側との関係で揺れ動くのだった。

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飯田木工所の赤木さん--24

木工所は週五日制だ。企業並みに見えるかもしれないが実は仕事があまりないだけだ。平日でも途中から帰れと言われることがある。その分賃金は減ってしまうが、幸平はその方が気楽だった。賃金よりも工場の雰囲気にどうしても馴染めない。他のバイトを探した方が良いと既に考えつつあった。

兄は二勤一休で夜中の勤務だ。なので休日だから休みということではないが、時折休みが揃うことがあった。そんな時、家族でたまに食事をしようと駅前のファミレスまでのんびり歩いてでかけた。

駅前までは、まだ母の足でも歩ける距離だ。ファミレスで三人が食事をすれば安くはないし帰りはタクシーを使う。母は買い物が好きなのでこんな時くらいはと好きなものを買わせてやる。出費を考えればちょっとしんどいが、たまにはこういうこともなければ家族全体の気持ちが塞いでしまう。

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飯田木工所の赤木さん--23

大体赤木さんは休憩後に残ったお茶を流しではなく床にぶちまける。相当な神経でなければこんなことはできないのだ。雇い主に反感があったとしてもこんな出方はしないものだ。ずーっと毎日、朝十時と昼三時の休憩でこれをやる。毎日毎日。そのことにもう誰も関心を持たない。注意もしない。幸平が知る限り、一度だけ婆さんがこぼしていたことがあった。

「あそこが腐ってくるのよね、やめてと言ってるんだけど、なんでああなってるのかねえ」

トイレの二階に出っ張った休憩室の角っこを下から見上げて、あの人の頭はどうなっているのかと嘆いていた。

だがそれ以上のことがあるでもない。この行儀の悪さに関しては専務も無関心だ。常識人の神経とはかなり違ってしまっていると幸平は感じるのだった。だが幸平にしたって自分とは何の関係もないことをあれこれいう理由がない。ただ、赤木さんの神経が外から見えているものや物腰とは無関係に図太いことは確かだ。

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飯田木工所の赤木さん--22

山ちゃんと鈴木さんがチラッと目を合わせ、幸平はそれを眺めた。どのみち休み時間は終わりなので別に何事もないように二人は立ち上がり、湯飲みを簡単に水で濯いでしずくも振らずに盆に置いて出て行った。赤木さんはまったく洗わずにそのまま転がして出て行った。幸平はそれを簡単に濯いでやって、なんとなく自分の湯飲みとは距離のある所へ置いた。

幸平が階段を降りかかった時、先の二人はすでに作業場に戻っており、赤木さんは恐らく何の表情も浮かべずに階段の下に立っていた。幸平は上からそれを眺めた。その時荷台に肩手をついて顔を真っ赤にして立っている専務と眼が合った。専務はそれが癖なのか、また顎を突き出して何かを幸平に向かってほざいたようだったが、声は聞こえない。いちいちにこういう反応が出る。病んでいるとしか思えないのだった。

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