雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

鉛色の出来事 本編 二

長谷をはっきりと認識したのはいつだったろうか。

そうだ、あの時…。

長谷まり子。はっきりとしないが、四年生になった時のクラス替えで多分いっしょになった。

 

長い間洗ったこともなさそうな汚れた服を毎日着続け、目ばかり大きくてキョトンとして、可愛いとはお世辞にも言えぬ顔立ちで、多分風呂にも滅多に入らず、毎朝顔も洗わず歯さえ磨いていない雰囲気で登校してきていた。

 

 

本音では、誰もが彼女の隣に座るのを嫌がっていただろう。身なりが身なりだし、笑うことがほとんどなかった。いやむしろ、喜怒哀楽そのものがないのだ。

成績は恐らくびりっけつの方だったろう。

 

どこに住んでいるのかも知れず、どんな家庭環境かも知れず、クラスの誰もそんなことに関心を持たず、だいいち長谷が誰かと遊んでいたのを見たことがない。

極貧の、恐らくは修羅に近い家庭環境ではなかったか。何事にも無関心な、どこかで既に物事の全てを諦めているかのような無反応な彼女の雰囲気は、子供だった私の目から見ても周りとは明らかに違う種類のものだった。

 

名前を確か、長谷まり子といった。もっとも、苗字の長谷は確かでもまり子はあやふやだ。身近な友達以外のフルネームなど、いちいち関心はなかった。

 

そんな長谷を、私は一学期半ばまで眼中になかった。

私は一つの問題を抱えていた。あまり自分を好いてくれていない気配の女性担任のことが重荷だったのだ。

 

教諭は名を--虹貴和子--と言った。珍しい苗字だった。まだ若くて明朗で教え方も上手で父兄の評価も高いと評判の先生だった。

私も当初は良い印象を抱いた。この先生なら好きになれる。少なくとも最初はそう思った。

 

一年生二年生ともに、私の担任は虹教諭だった。学校の仕組みなどもうすっかり忘れてしまったが、二年ごとのクラス替えだったように思う。

とすれば三年生でも長谷は同じクラスに居たはずだが、その印象はまったくない。
或いは他所から転校してきたのかも知れない。

三年生当時は一旦他の女性教諭が担任になったが何らかの事情で退職したので、四年生になってまた虹教諭が担任になった。

 

当時のクラスと担任の関係などまったく覚えていないが、私は何かの事情で虹教諭とくっ付けられていたのかも知れないとすら思う。でなかったら、良くも悪くも余程に因縁があったのだろう。

 

一年生二年生当時の私と虹教諭との関係は、何らの記憶に残るほどのこともなく、その後の要因になるようなことは認められない。何かがあったとは思えない。

しかし四年生で三度めの担任になったときは、ちょっと印象が違った。叱りを受けることや小言が多くなったのだ。

私にはそう感じられた。

 

はっきりそれと判ることがある日起きた。教科書のある部分をノートに書き写してくる国語の宿題があった。

私は熱心にやった。漢字の覚えは悪かったが、文章を書くのは嫌いではなかった。

自信作を提出した。きっと褒めてくれるだろうと思った。

 

翌日だったか、或いは翌々日だったか、教室に入ると先に登校してきた連中が後ろのテーブルに集まってガヤガヤとやっていた。私に気が付くと、皆は振り返って私に視線を集めた。

あまり仲の良くない悪ガキが、意地悪そうな顔つきで嘲笑するように言った。

「浜谷、お前のもあるで」

浜谷陽一、それが私の名前だ。

 

何かと思ってテーブルを見ると、採点の高いノートが並べられていた。その中に私のノートもあった。テーブルの真ん中に置かれていた。

ただし、悪い見本として。宿題の各ページに大きな赤いバッテンがされていた。

しばし呆然と眺めた。そんなはずはないと思った。

 

悪いならどこが悪いのかを述べてそれを返してくれれば良いのだ。悪い見本として他と並べる必要があるだろうか。いくら子供の私でも、それくらいは憤るのだった。

それは、辱め以外のなにでもなかった。

 

女子はともかく、ガキタレのなかにはあれこれ冷やかすものがあった。

ズバリ言う者もあった。お前、先生に嫌われてるんやろ----。

 

何で、どうして?----と一瞬は思ったが、それはすぐに覚めた。

自分でも不思議に思うのだが----ああそうか----と、間も置かず悟るような気持になった。

妙に覚めていたのだ。もしかして、予感めいたものがあったのかも知れない。

 

私はこの時、何の関心もなさそうに離れたところでポツンと立っている長谷を初めて認識した。長谷の無表情な目と私の目が初めて合ったのだった。

 

続きます。