虹教諭は問うた。表情を変えずに、普通の声よりも低く抑えて、それがむしろ前段階を楽しんでいるような嫌らしさが、私には感じられた。
「素振りとは、どんな素振りですか」
「どんなって…」
戸惑っていると、教諭は焦れた。顔にも険しさが漂った。
私はうつむきながらもチロチロとその険を窺った。
「しょうがありませんね、先生は期待していたのですよ、勇気を持って自らの誤りが認められることを」
皆はシーンとしていた。私はじっと立っている他なかった。
「じゃ、ちょっと前に出てきなさい。ここでそのときの素振りを皆の前でやってみなさい」
予想はしていた。多分そうなるだろうと。
私はここで初めて長谷の方を見遣った。長谷がどんな思いでいるのか、一瞬気になったのだ。
長谷は、今起きていることが、まるで自分とは無関係であるかのように、じっと前を見ているだけだった。私はもちろん、教諭の方さえも見ていないようだった。
「どうしました、浜谷君。じっとしていても何も解決しませんよ」
私はおずおずと教壇の前まで歩いた。着古したズボンが、足の震えと共に小刻みに揺れていた。
「そうね、長谷さんもちょっと前に出てきてちょうだい」
教諭は長谷に向かって手でおいでおいでのしぐさをした。
長谷は言われるままに、何らの躊躇もなく立ち上がって教壇の前までスタスタと歩いてきた。いつもと同じような、まるで仕掛けロボットのようだった。
私の横に来て、教諭に肩を回されるようにして長谷は私と並んだ。目をほとんど動かさず、私をも見ない。
「はい、長谷さんが来ましたよ、浜谷君はどんな素振りをしたのですか」
教諭は長谷には問いかけない。飽くまで私だけを見据えていた。
私は仕方なく、恐る恐るの感じで、長谷に向かって扇ぐような振りをした。
「それだけですか」
私は小さく頷いた。クラスの全員は、言葉も発せずに、ことの成り行きを見つめている。
「樺木君、樺木君はそのときに見ていたのですね」
「はい、見ていました。たまたま近くを通りかかったときに…」
賢ら顔で偶然のように樺木は言った。だがそれは正しくない。彼はいつもどこかで私を観察しているような気がしていたが、ここに至ってそれは決定的だった。
「樺木君が見たときも、こんな感じでしたか」
教諭は既に、まるで裁判官のように尋問調だった。
「いえ、ちょっと違います」
「どう違うのですか」
「笑いながらやっていました」
ええー! というクラス全員の声が一斉に上がった。子供特有の、教諭へのお追従だ。まったくなんてひどいことをするんだという、大袈裟な芝居だ。
子供の心が純真だなどというのは、まったくのお笑いでしかない。己の胸に手を当てれば、身に覚えのある者がどれだけ居るだろうか。
「笑いながらですか。それは随分ひどいことですよ。それがどんな行為か、解っていますね」
言葉と共に教諭の冷たい視線が、なおも槍のように突き刺さった。
私は、黙って頷くより仕方がなかった。実際、したことはしたことだから。しかし樺木はどうして、西岡ではなく自分だけを問題にするのか、私には理解できなかった。
特に樺木と西岡が仲良しだという話も聞かなかった。
「解っているなら、どうしてそういうことをするのですか」
答えようがなかった。悪ふざけなのだから、いけないことであるのは無論だが、笑いながらやるのが普通だ。それが悪ふざけと言うものだ。
「訊いているのですよ、どうしていけないことだと解っていることをするのですか」
教諭の声はもう随分と大きくなっていて、誰の目にも興奮が明らかだった。
私は無言。教諭は追い討ちをかける。この繰り返し。
「そのとき長谷さんがどんな思いをしたと思いますか」
私がうな垂れたままでいると教諭は追い打ちをかけた。
「長谷さんがどういう思いをしたかと、訊いているんです。想像できませんか」
「嫌な思いをしたと思います」
教諭は何度か小刻みに頷いた。そして言った。
「そうですね。誰だって同じことをされれば嫌な思いをするでしょう。相手が嫌がることをするというのは、とても恥ずかしいことなんです。わかりますね」
皆は「はい!」と元気良く声を揃えた。
長谷は、まるでロボットのようにその場に突っ立っていたが、私は既に涙ぐんでいた。
それを察知した教諭は、さすがにやり過ぎたかも知れぬと思ったかも知れない。
「皆いいですか。先生は、個人を懲らしめようと思っているのではありません。その点は誤解しないようにしてください。皆も、ちょっと自分の胸に手を当ててみてください。場面や事情は違っても、似たようなことを、ついやってしまうことはありませんか。先生は、それを言いたいのです。解りますね」
「はい!」と、またまた全員が元気良く答えた。皆、大真面目な顔をしていた。
教諭はおさまりかえった表情で続けた。
「いま、たまたま樺木君から指摘があったので、具体的にどうだったのかという意味で、ここでもう一度同じことをやってもらいました。その方が解りやすいと思ったからです。他人を軽蔑するような言葉はもちろんですが、うっかり私たちは態度でそれをしてしまうことがあります。それが他人をどれだけ傷つけるか、それを知ってもらいたかったのです」
真剣な顔で全員が頷いた。私はグッと唇を噛み締めているだけだった。
それはその通りだ。まったく反論の余地もない。しかし私は、教諭が、自分だけはそんな人間的な未熟の埒外に居るかのように言い方に我慢ならないものを感じていた。
指摘だの具体的だの未熟だのと、子供には難しい言葉を並べずとも、大人がそんなに立派でないことくらいはわかるのだ。教諭だって変わりはしない。その辺の身勝手な大人と同じなのだ。
現に、教諭の他の生徒に対するある行為を、私はいかがわしく感じていた。
「では、長谷さんに謝りましょう。いいですね浜谷君」
教諭に即され、私はごめんなさいと、長谷に頭を下げた。
長谷はやはり無反応だったが、教諭は満足げで、ようやく席に戻って良いと言った。
長谷はそそくさと自分の席に戻った。私もそのまま、黙って戻れば良かった。しかしつい、余計なひと言をもらしてしまった。
「でも、先生かて…」
それは、聞こえるか聞こえないかの小さな声だったが、おさまりかけていた教諭の顔が一瞬変わった。
「え、いま何か言った?」
まずい、と思ったが、遅かった。
私は、気の小さいできの悪い生徒でしかなかった。他人にあれこれ言われても、どちらかと言えば笑ってその場を誤魔化す方だった。
しかしここでは、悪いものを吐き出さねばならぬように、何かしら言葉を発しなければ、もう胸が収まらない状態になっていた。
しかし同時に、はっきりと聞こえてしまうとまずい。大声になりかける、その狭間のギリギリのところでようやく抑えて、私の声は単にうめき声にしか聞こえていないつもりだった。
しかし、教諭にははっきりと聞こえたようだった。
「言ったでしょ。先生には聞こえましたよ。もう一度はっきりと言ってごらんなさい」
教諭の顔は既に真っ赤だった。
「な、なにも言うてません」
「いえ、先生にはちゃんと聞こえましたよ。先生もって、言ったでしょ」
私は、どうにか言い繕って逃れようと思ったが、言葉が浮かんでこなかった。まるで、厄介な不良に絡まれて逃げ場を失っている子供のように、なすすべもなく突っ立っていた。
露出の壊れたカメラのように、目の前の光景が白く飛んで見えた。
教室はシーンと静まり返った。私は答えられずに、教諭も私を睨み続けたまま、長い時間が過ぎたように思う。
ようやく教諭は言った。
「放課後、あなただけ残りなさい」
続きます。