ようやく席に戻されたとき、授業終了のベルが鳴った。
終了の挨拶をした後、数人の掃除当番だけが残って、掃除を始めた。
私は当番ではなかったが、教諭は私にも掃除を手伝うように命じた。
教諭は何故か職員室に戻らずに机に座ったままだった。
息をするのが嫌に苦しかった。掃除が終わったら、また嫌な苦しい時間が待っている。
それを思うと、余計に息苦しい。過呼吸というものを当時知らなかったが、あるいは、そんなものだったかも知れない。
一旦教諭から離れたかった私は、ゴミを集積所まで運ぶことを申し出た。
たまたま当番だった中森が一緒に着いてくれた。
中森は割と仲の良い友達だった。プラモ仲間だったのだ。授業が終われば中森の家に行って遊ぶ予定だった。
「なんか、嫌なことになったなあ」
中森が呟いたが私は無言。
「大丈夫かお前…」
心配そうに中森は言った。私は小声で返事をするのがやっとだった。
「うん…」
「しんどいのとちゃうんか」
中森の問いに、私は何度か頷いたが、言葉は逆だった。
「大丈夫や、ちょっと緊張しただけや」
「きょう、どうする?」
私の体調とこの後の約束を、中森は心配した。簡単に返してもらえないかも知れないと、中森は予感したようだった。
私が無言でいると、中森が言った。
「待っといたろか」
私は少し微笑んで、小刻みに頷いた。言葉を発するのが面倒だった。
重い程ではなかったが、空になったゴミ箱を中森が持ってくれた。
なるべく時間をかけて二人で歩いた。気分は徐々に落ち着いてきたが、このまま帰れればと思った。
教室に戻ったとき、既に生徒たちは居なくて、教諭だけが机に座って私を待ち構えていた。
「掃除、終わりました」
中森が報告して、教諭に一礼して教室から出て行った。
その際私と中森は互いに目で合図した。正門か運動場のどこかで待っていてくれるのだろうと思った。
私はそのまま、教室の端っこの、教諭の机とは対角の位置に立ち竦んだ。
「そんなところに立っていては話ができないでしょう。こっちへきなさい」
仕方なく私は、教諭の机の前までオズオズと歩み寄った。教諭の顔をなるべく見ないように、下ばかり見ていた。
机の前ではなく、横へ来るように言うと、教諭はうな垂れる私の頭にくっ付かんばかりに顔を接近させて、下から覗き込むような姿勢になった。
圧迫されるような嫌な感触を、私は堪えた。
「いいですか、授業中も言ったように、先生はあなたを懲らしめようと思っているのではありませんよ。先生にとってもあなたにとっても、問題は、今度のことをあなたが本当に心の底から反省しているかどうかなのです。わかりますね」
言葉の最後に、必ず「わかりますね」と言うのが教諭の癖だった。
私は黙って頷いた。他にどうしようもない。
「でも、あなたは最後に何か言いかけましたね。それは、不服に思っているということですよね」
私は無言。
「あなたは、先生もって、言いましたね。先生にはちゃんとそのように聞こえました。それはどういう意味ですか」
私は、どう答えるべきか、子供なりの頭で精一杯考えていた。黙ってやり過ごせるとは思えない。さりとて言い方次第で火に油を注ぐ。
「訊いているのですよ。先生になにか言いたいことがあるのでしょう。なら、この際それを言ってしまってすっきりさせたらどうですか。そうでないと、きょうは二人とも帰れませんよ」
現代の社会通念に照らせば、家に帰れないぞと、これは重大な発言だと思う。しかし当時そんな概念はなかった。どころか、教諭の乱暴など世間が許していた時代だ。
そうまで言われて、私は仕方なく覚悟を決めた。なるようになるしかなかった。
消え入りそうな声で、私は呟いた。
「先生も鈴田君のことを言いました」
「え、鈴田君?」
教諭は眉を歪めて、意外そうな顔をした。鈴田の名前が出るなどと思っていなかったのだ。
「いつか鈴田君が教科書読んだときに、あいつ鼻声やったんで、先生は怒ったような顔をして洟をかみなさいと言いました」
「……」
「鈴田君は鼻が悪いんです。洟をかんでも治らへんのです。先生も知っているじゃないですか」
鈴田はかなり鼻が悪かった。強度の蓄膿症だったと思われるが、はっきりとはわからない。恐らく、生まれつきみたいなものだったろう。両鼻がいつも詰まっていて、そのためにいつも口を半開きにしていた。
当然、話し声も摘んだような鼻声だった。りんご----とは言えずに----りっご----と言っていた。
治療をしていたのかどうかは知らない。が手術でもしなければ根本的に治るようなものではなかったろう。
しかし鼻が悪い子供は鈴田だけではなかった。当時は似たような子供がチラホラと存在していた。それがどんな理由だったのか、私にはわからないが。
病気なのだから、それをどうのと言われても本人は嫌な思いをするだけだ。しかし教諭にしてみれば、その鼻声が、胸糞の悪くなるようなことだったのだろう。鈴田が教科書を読んでいる間、教諭は眉を歪めた不愉快そうな顔をしていた。そして読み終えたとき、間を置かず強い調子で----洟をかみなさい----と言ったのだった。
鈴田は顔を真っ赤にして、眼を何度も瞬いていた。多人数の前で恥を掻いた時などは誰もがそんな所作をする。
「それのどこが悪いの」
「鈴田君は嫌な思いをしたと思います」
「それはあなたの勘違いです」
「でも、恥ずかしそうな顔をしてました」
「では、鈴田君に今度聞いてみますか。先生が言ったことで傷つきましたか、恥ずかしい思いをしましたかと」
「そんなこと…」
訊いて鈴田がうんと言うわけないではないか。あの時の先生の一言で、僕は随分恥ずかしい思いをしましたなどとと言えるはずもない。わかりきったことだ。
それでなくとも子供というものは、苛められてもまた懐く子犬のようなものなのだ。
「先生はね、なにも遠慮することはないから、洟をかみたいときはかみなさいと言ったのです。もし鈴田君が洟をかんで、それを皆が笑いものにするようなことがあったら、そういうことこそ、恥ずべきことですよと、そういう意味だったのですよ」
大人というものは上手く言うものだ。大人になった私自身がそれをよく知っている。
そんな風には思えない。あのときの教諭の不愉快な顔は、とてもそんな感じではなかった。それはまた、長谷が西岡の傍を通りかかる時の西岡の不愉快な顔と同じ種類のものだった。
だがそれを言うと、ますます逆上させるのは眼に見えていた。なにを言ってもはじまらない。痛いところを突けば突くほど、教諭は己を正当化するためのセリフをいくらでも考える。
解放されるのが遅くなるだけだった。
私はもう、何を言われても、ただ頷いて黙っていようと思った。そうやって、嵐が過ぎ去るのを待つ以外になかった。
もしこんなことでいつか親でも呼ばれたら、親は無条件で教諭の側に着くだろう。子供の言うことより先生が正しい。教諭の説明だけを真に受ける。
当時の親などは概ねどこもそんなものだった。私の親などはその典型だった。
そんなことになったら、家ではまた親に叱られるに違いないのだった。
説教は、いったいどれくらい続いただろうか。
私はもう立っているのもしんどくて、それを耐える方に神経が行って、いくら説教されてももう頭に入らないのだった。
そこから先、教諭が何を言ったか、私は全く覚えていない。言うがままに任せて、私はただそれを右から左と流すだけだった。
ぼんやりと机の上に置かれた花瓶の柄や机の木目を眺めた。
この花は何の花だろうか、いったいこの木目は何本あるのだろうかと、なぜか知らぬが、今起きている不愉快なことと何の関係もないことばかり思い浮かんできて、ただただ時間が過ぎて行くのを待ったのだった。
不思議なことに、そんな思いをしている最中なのに、いつの間にか私の頭の片隅に、普段はあまり歌ったこともない流行歌が思い浮かんでくるのだった。同じ部分ばかりが壊れたレコードのように何度もリピートされて、意識してそうしているわけでもないのに、これがいつまでも去らない。
これに関して誰かが面白いことを言っていたのを思い出す。
人は難儀からなかなか解放されない時に、得てして鼻歌など歌うことがある。それは脳のある種の防御行動なのだと。
なるほど脳にそんな仕組みがあるのなら、あるいはそうだったかも知れないと、今にして興味深く思うのだが。
しかし私は、もう限界に近かった。
そうしたころ、男性教諭がひとり教室に駆け込んできた。
振り返ると、飛び込んできた教諭の後ろで、中森の姿が扉に隠れるようにして、一瞬見えたような気がした。
待ちくたびれ中森が他の教諭に伝えたのだろうかと、その時思った。
「虹先生、どうしはったんですか」
虹教諭の顔は急に変わった。見事なまでの笑顔になった。
「いえいえ、なんでもないんです、二人でちょっと大事なことを話してましたので」
「なにか、相談事か何かですか」
「ええええ、そうですそうです。そうやね浜谷君」
私はまるで、うな垂れのついででもあるかのように、揺れるように頷いた。
その姿気配だけでも、そんなことではないと容易に判断できたはずだ。だがこの男性教諭にとっても、そんなことは多分どうでも良かった。
「ああそうですか、そら邪魔をしました。しかしもう時間もあれですんで」
「あら、もうこんな時間」
虹教諭はわざとらしく振り向いて、黒板の上の時計を見上げた。
もう四時半になろうとしていた。
そんなことで、私はようやく解放された。
続きます。