雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

鉛色の出来事 本編 十

結局私は大風邪をひいて寝込んでしまった。

落っことしたサバの泥を母が苦労して取って、帰宅した父の食事の用意もそこそこに、私は一度潜り込んだ布団から這い出て、母に付き添われて医者へ行った。

なにかあると近所の子供は大方そこに行くことになっているような病院があって、診察時間をやや過ぎていたが、元々子供専門病院でもあったので受け入れてもらえた。

ドクター・ペッパーのような薬をもらったような記憶があるが、どんな治療をされたか、もうはっきりと覚えていない。きっと、どこへ行っても似たようなものだったろう。

 

家にはまだ電話がなかった。まだすべての家庭に電話がある時代ではなかった。
遠くもないので、翌朝母が学校まで行ってくれた。

四年生の浜谷の母ですと虹教諭を訪ね、昨日帰ってきた時から怠そうにしてまして----と伝えてきたという。

「先生、なんか言うてた?」

虹教諭がどんな顔をしていたのか、それが気になった。

「別になにも、ああそうですか、お大事にと言うてはったけど」

長い時間説教を垂れて、帰宅したら寝込んでしまったと聞けば嫌でも気になったはずだが、どうだったのだろう。

 

一度ぽしゃってしまうと症状が一気に出てくる。頭も喉も痛くなって咳が出るようになった。

私は子供の頃は風邪をひくとかなり咳き込んだ記憶がある。時にはそれが止まらずに苦しい程で、食べたものを戻すことさえあった。

父が無理やりシップをするので、首に巻かれるお湯で絞った濡れタオルが気持ち悪くてしょうがなかった。

狭い世帯なので、誰か一人が咳き込むと感染の心配もあるし、シップをされるのはしょうがなかったが、気持ちの悪さを我慢するほどの効果があるとも思えなかった。

 

学校は木金土と休んで、日曜日も寝ていた。熱が引いてもどうにも治ったとも言えぬ状態なので、結局火曜日まで休んでしまった。

布団にくるまっていると、静けさのなかで微かに学校のベルの音が聞こえてくる。

学校で皆どんな話をしているだろうか、長谷はいつもと変わらぬ無反応な顔をして机に座っているのだろうかと、そんなことばかり頭に浮かんだ。

今回の件で長谷は何を思っているだろうか。何も思っていないだろうか。

自分のことを、臭いと言われて起きている事だった。それが気にならないはずがないだろうけど、そこが長谷の奇妙なところだった。やっぱり無関心かも知れないと私は思った。

 

想像するまでもなかったが、長谷は行けと言われるから学校へ行っているだけの生徒だ。義務教育だからしょうがない。

それを言っちゃ私も似たようなものだが、私にはまだ友達もおり、嫌な学校と言えども、まったく楽しいことがないとも言えないのだった。

長谷にはおそらくそんなものはなかったろう。話し相手ひとりおらず、あらゆることに無反応な長谷にとって、学校生活はうんざりするほど退屈なものだったに違いない。

人知れずに居る長谷を誰も知らない。たったひとりになったとき、長谷は何をして何を考えているのだろうか。

寝ている間、思い浮かんでくるのはそんなことばかりだった。

 

翌週の水曜日、私はようやく登校した。一週間休んでしまったわけだ。

教室の雰囲気は、何事もなかったかのように、以前と変わらなかった。数日経ているので、当たり前かも知れぬが、私は全員の視線が一斉に集まる光景を想像していた。

「あ、浜谷君、風邪やと聞いているけど、治ったん」

最初に目が合った女子が声をかけてきた。

笑顔という訳にも行かず、どことなくまだしんどそうな風を装って、私は何度か頷いた。

皆と顔を合わせるのが照れ臭かった。

 

中森が近寄ってきた。

「おう浜谷、大丈夫かいな。心配したがな」

中森だけが元気に笑っているように思えた。

「あの時、なんかしんどそうにしてたもんな」

うんうん、と返事をすると、中森はトンと私の背中を叩いた。元気出せと激励してくれたのだった。

私は自分の席に着く前に長谷の方を見た。長谷は、特にどこを見るでもなく、ネジでも巻いてやらねば動かないロボットのようにじっと座ていた。

 

席に着いてから、私は樺木を探した。樺木はニヤニヤしながら、他の生徒と一緒に私を見ていた。

私は樺木を睨みつけた。樺木は一旦プイと横を向いたが、思い直したのか、急に立ち上がって私に近寄ってきた。

その間もずっとニヤニヤして、接近するなりこう言った。

「お前、ほんまに風邪やったんか。かっこ悪いから休んだんやろ」

心底嫌らしい奴とはこういう奴のことを言うのだ。私は樺木のニヤつく顔を、なるべく無表情を装って見つめながら、腹の中で誓った。

 

お前のことは絶対忘れない。大人になっても忘れない。水に流すなんてことはない。


授業開始のベルが鳴って、教室に虹教諭が入ってきた。私は教諭の顔を一瞬だけ見たが、すぐに視線を逸らせた。

教諭は直ぐに点呼を取り始めた。私の名前が呼ばれ、私は普通に「はい」と返事をした。

「ああ浜谷君、長いこと休んだね、もういいの?」

教諭はなるべくさり気なくを装っているように見えた。私もそのようにした。

「はい、もう治りました」

私の答えが終わるか終わらぬかの内に、次の名を呼び始めた。

こうしてその日の授業が始まった。

 

授業は何事もなく普通に進んだ。その間、教諭は私をなるべく眼中に入れないようにしているように見えた。少しやり過ぎたと内心では思っていたかも知れない。

給食の時間、私はまだ食が進まなかった。特に、おかずの具になっている、生煮えっぽく脂肪が毛穴から流れているような肉が、元々苦手だった。

それでもいつもは、吐き気を我慢しながら、噛まずに流し込むようにして食べていた。残すと昼休み中はもちろん、次の時間が始まっても、食べるまで机の上に残されたのだ。

三切れある甘い食パンの一切れだけは食べ残して持ち帰ることが許されていたが、おかずは食べ残し厳禁だった。

こういう無理やりな指導は、現在ならどう判断されるだろうか。

魚はともかく、私に肉が食べられるようになったのは、ようやく高校生になってからだった。それも生焼けっぽいのは絶対に受け付けなかった。

この日私は、どうしてもそれが喉を通らぬので、恐る恐る教諭の前まで行ってお願いをした。

まだ、ちゃんと食べられませんので…。

教諭は私を見ぬまま頷いただけだった。幸い叱られることはなかった。

 

五時間目の道徳の時間は、自習に当てられた。思い思いに気になっていることを各自で自習するように指示しただけで、用事があるからと、教諭は教室から出て行った。

本当に用事があったかどうかは知らない。

 時間中、私はこっそり皆の様子を窺った。自習とはいえ、皆はヒソヒソと雑談を始めた。自習時間はどこでも似たような光景だろう。

長谷はじっとしたままで、中森は時々私の方をチラチラと見ていた。西岡はノートに何かを書いていた。

鈴田のことも気になった。教諭との話のなかで、鈴田のことを出してしまった。

鈴田はもしかしたら以後嫌われるかも知れない。或いは逆に教諭が愛想よくするかも知れない。

いずれにしても、教諭が鈴田などを巻き込んでこれ以上ややこしいことにしないことを願った。

当の鈴田は口を開けて、窓の外をポカンと見ていた。

樺木の顔だけは、もう見るのも嫌だった。

 

こんな出来事があって、私のなかで長谷に関わるわだかまりが、何とももう放置できない状態になりつつあった。

私はいつか、こっそり長谷に謝ろうと思っていた。あんな無理強いされた形ではなく。

長谷がどう受け取るかどうかは関係なかった。

しかし気まずさやタイミングもあってそれを果たせないまま、日にちだけが過ぎて行った。
 

そんな頃、私たちは突然転居することになった。父が会社を辞めて事業を起こすと言い出したのだ。

現住居ではとてもそれができない。作業場を確保できるくらいのスペースが必要だった。

「仕事は大丈夫なんや、もう話が付いてるんや」父は浮かれ顔になっていた。

あんな貧乏所帯でいきなり事業など無理な話だと、もうちょっと大人であれば思ったかも知れない。

そもそも私は、父がどこへ勤めて何の仕事をしているのかも知らなかった。この時になって初めて知ってみると、包装関係の会社だそうで、兵隊仲間だった人の伝手で勤めていたようだ。

何らかの話が付いて、父は独立してその会社から仕事をもらえる手はずになっていたらしい。

「これからは良うなるでえ」

声が弾んでいた。母も兄も期待しているようだった。しかし年少の私にはなんとなくのことでしかなかった。

 

転居と言っても距離は知れていた。今度も長屋形式だったが、部屋が沢山あって二階建て。庭もあった。今までとは随分な違いだった。

 部屋の一部を改造して、一家はボール紙を切ったり貼ったりするようになった。

私も兄も手伝わされた。指を落としそうな危ない機械も運び込まれた。

しかし実情は、始めたばかりの仕事に青息吐息で、父も母も私には無関心になった。つまり私の成績など眼中になくなったのだ。

無論、私にはその方が気が楽だった。

 

越してみると、知った顔が向かいに住んでいた。井植という、同じクラスではないが、身近に知っている同学年の男子だった。

その井植から、私は意外なことを聞いた。

「お前の組に長谷という女がおるやろ。あいつな、そこに住んでたんやで」

越してきたばかりの私の家を指さした。

 

続きます。