雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

鉛色の出来事 本編 十二

自分から接近して置いて遭遇はないだろうが、私にしても長谷という得体の知れない未知のものに初めて遭遇したようなものだった。

以後の成り行きはもう覚えていないが、後はもう話すこともなく無言で適当な絵を描いたに違いない。

絵は後で必ず先生に講評されるのだが、それもまったく覚えていない。以前のように悪い見本として後ろに展示されることもなかった。

 

 

しかしこれは記憶がはっきりしない。単に忘れているだけかも知れない。どうせろくな絵は描いていないが、今度は叱られた記憶がない。どうもあの一件以来、教諭はあまり私に構わなくなったような気がする。教諭との関係で以後何やらがあった記憶がないのだ。

恐らくは、教諭自身がもうどうでも良くなったのか、それとも誰かに注意されたのかも知れない。他のクラスでも噂になるくらいなので、やり過ぎたと思っていたのは間違いなかったろう。

もっともそれは私の憶測だが、その後の日々は割と平穏だったように思う。

 

給食後の休み時間は、なるべく運動場に出て遊ぶことが奨励されていた。あまり教室に残るなと言われていたのだ。

しかしこれは現在の観点からすると少し疑問がある。少しは間を開けた方が良いのではないかと思うのだが、とにかく子供の頃は、食べた直後によくもあんなに動けたものだと、今にして驚く思いだ。

 といっても毎日ほぼ同じことの繰り返しで、私も数人でボール投げをしたりケンパをすることで時間を潰した。

私はビー玉やベッタンが得意だったのだが、これは学校では禁止されていたので、その多くの時間を球技ではなくケンパで過ごした。玉投げは苦手だったが石蹴りは得意だった。

ケンパのことがわかる人がどれくらい居るだろうか。何故ケンパと言うのかは知らないが、ケンパにも種類があったようで、当時学校で流行っていたのはホームランケンパと称するものだった。

 

ルールは殆ど忘れてしまった。地面に線を引いて箱をいくつか描いて、薄っぺらい石や瓦の欠片のようなものをケンケンで蹴飛ばして、時々は両足で立ったりしてゴールの箱に入れて行くのだ。

蹴飛ばす石はどんなものでも良いのだが、蹴飛ばしやすいものでなければならない。そのための自分専用の石を持っていたのが居たくらいだから、流行っていたのだ。

 

しかしその日、私は誰と遊ぶでもなく、ぼんやりと朝礼台に腰をかけて、皆が遊ぶのを眺めていた。あっちの縄跳び、こっちのドッジボールなどをぼんやり眺めてふと蘇鉄の付近に目を遣ると、運動場に背を向けるようにしてしゃがんでいる長谷の姿が目に入った。

あの写生の時間以後、長谷は私の頭からは一時的にしろ去っていた。

その時長谷は、しゃがんで地面に何か描いているように見えた。

私はあの時と同じようにゆっくり近寄って、後ろから声をかけた。

「なにしてるん」

いきなり声をかけられた長谷は、びっくりしたように振り向いて私を見上げた。しかし直ぐにまた向き直って、地面の上を右に左に手を動かしはじめた。

別に何を描いているというのでもなく、ただ土の上に、その辺で摘まんだ小石を走らせて、意味のない線を描いているようだった。

画用紙の絵と違っていささか不鮮明だが、それはあの時の絵とほとんど同じように思えた。

何の理由があって長谷はそんな絵を描くのか、私はいささか不思議に思った。

「それ、何描いてるん」

訊かれても長谷は答えない。黙って私に背を向けたままだ。

「あの時描いてたのとよう似てるな」

やはり答えない。

「せっかく描いても、土の上やからすぐに消えてしまうで」

余計なお世話かも知れないが、長谷はまったく反応を示さない。うるさいとも言わない。

 

話す言葉がなくなった。次の言葉がないものかと思案しながら、私はしゃがんだ長谷の後ろ姿を初めてまじまじと眺めた。

所々ほころびのある花柄の薄いワンピースはもう随分汚れていた。髪の毛はゴワゴワ。耳の後ろや首筋が真っ黒だった。

長谷が一体どんな環境にあるのかをぼんやりと思いつつ、しばらく立っていたが、ふと家のことを思い出した。

「お前、いまどこに住んでるんや」

反応なし。

「ちょっと前に公園に近いとこに住んでたやろ」

やはり無言。

「知らんかったわ、あんなとこに住んでたんやな」

全く無視。

「えらい愛想悪いやんけ、こんだけ話しかけてるのに、なんか言えや」

そこまで言っても長谷は無視するように地面をなぞっている。

こりゃダメだなと思ったが、乗り掛かったらこっちも勢いがあった。

「お前が住んでたとこな、今は俺が住んでるんやで」

すると長谷は一瞬振り向いて、私をしばらくの間見続けた。

といってもそれは、ほんのニ三秒だったかも知れない。しかし反応があったのだ。意外だな、くらいには思ったかも知れない。

「向かいに井植が居ったやろ」

しばらく間があって長谷は答えた。

「知らんわ」

 

素っ気ないが、とにかく反応するようになった。私が今そこに住んでいることに、反応するなりの理由があるに違いなかった。

私はたたみかけた。

「今度お前んとこに遊びに行ったらあかんか」

「…」

「たまには遊ぼや」

「なんで」

「なんでて、子供は遊ぶもんやないけ」

「要らんわ」

「え?」

「こんでもええ」

今度は私が訊き返した。

「なんで?」

「なんでも」

「なんでもて言われても、わからへんやんか。なんであかんの」

「あんまり、遊びたない」

「誰とも遊べへんのんかいな」

長谷はまた黙った。

少しの間があった。

 

「家に帰ったらなにしてるんや」

どうやら長谷は一度では答えない。二度押しで効果があるようだった。

「家の近所に友達は居るんやろ」

「居てへん」

「居らんことないやろ、近所に子供住んでへんのか」

「居っても喋れへん」

「喋れへんでも、遊んだりなんかしてるやろ」

「なにも」

「なにも…て、なにもしてへんのんか」

「うん」

 

理解し難いことだった。子供の世界でなにもしていないということは勉強もせずに遊んでいることを意味するのだが、遊ぶことすらないとはどういうことなのか。

「なにもしてへんて、そんなん変やんけ。ただじっとしてるだけかいな」

長谷は再び無言になった。

しかし私はここだとばかりたたみかけた。

「学校から帰ったら、誰でも近所で遊ぶやろが」

すると長谷は、すっと立って五六歩駆けたかと思うと、そこでまた座って地面をなぞり始めた。

長谷が移動した後に残された模様を眺めた。この渦のような線の集合体は何を物語っているのだろうか。子供の私にそれを解釈できようはずもなかったが、突き詰めれば必ず何らかの理由があるはずだとその時思った。

 

私は追いかけるように長谷に近寄った。

「いっぺん、遊びに来いや。前に住んでたんやろ」

「…」

「遠慮せんでええで」

「遊びに行って、なにすんの」

「なんでもええがな。なんやったら友達連れてきてもええで」

「友達なんか居てへん言うたやろ」

「それでも誰か居るやろ」

「居らへんて」

「居らへんことないやろ、誰か居るやろ」

ここまで言うと長谷は遂に立ち上がった。サッと振り返って私を見た。

こんな機敏な長谷を始めて見た。

 

「あのな、うち、友達なんか欲しないねん。友達なんか居てへんでもええ」

口調は強かった。私は呆気にとられた。

「あんたもうちなんかと遊ばんでもええ、どうせ親から怒られるやろ」

思いもしない変化に私は戸惑いながら答えた。

「そ、そんなことないで」

「無理せんでええ、うちはこれでええねん、家なんか来て欲しない。うちに家なんかない」

「い、家がないて、そんなんあるかいな。ちょっと前まで今俺が住んで…」

言いかけるのを遮るように長谷は声を大きくした。

「ええのや、うちはこれでええねん。もう放っといてや!」

 

反撃と言っても良い程の長谷の口調だった。長谷はごく普通に鋭い感性の持ち主だったのだ。

私は言葉もなく呆然と立ち尽くした。

長谷はクルっと身を翻して走って校舎の中に入って行った。

授業開始のベルを聞きながら、私は長谷の後ろ姿を目で追った。

 

続きます。