毎週水曜日の午後、週に一時間だけ設けられている道徳の授業があった。
私は知らぬが、一部の人たちがどのような理由か廃止論を叫んだことがあるようだが、授業は今も存続しているのだろうか。
簡単に言えば正しい行いとか努力とか、日常の出来事対する考え方などの類を生徒と教諭が一緒に考えると、そんなことだったような気がする。
気がする----というのは、精々そんな程度の認識でしかなかったからだ。授業はどれも退屈だったが、道徳の授業は他の授業よりは気が楽だった。私にしてみれば、ただぼんやりしていれば済んでいく程度の授業だった。
しかし、その日の授業は違った。思いもかけないことが展開したのだ。
教諭の発言は、唐突だった記憶がある。
「他人を除け者にしたり、身なりや弱点をあげつらってからかう行為は良くない行為です。そのようなことをしたことがある人や目撃した人は居ませんか」
教諭の発言につられるように、まだ発言が終わらぬうちにサッと手を挙げた者がいた。樺木という男児で、誰によらず、ちょっとした弱みができると、いつの間に何故か知っている、不思議に小聡い生徒だった。
教諭に目で即されて立ち上がった樺木は、まるで手柄話でもするかのような得意面をしてこう言った。
「長谷さんのことを臭いと言ってからかっていた人が居ます」
私はギクッとした。もしかしてと思った。
「それはいけませんね。他人をからかうのは誰しもやる行為ですが、臭いとか汚いとか言ってからかうのは、これははっきりとしたいじめです。それはいったい誰でしょう」
教諭は教室全体を澄ました顔で見渡して言った。その声は、これから苛める子犬を、優しく誘き出すような響きがあった。
「身に覚えのある人は居ますか。居るなら正直に立ちなさい。別に恥ずかしいことではありません。過ちは誰にもあることです」
樺木は他の誰でもなく私の方を、怒ったような、それでいてちょっと笑っているような顔で見ていた。
教諭は樺木の視線を追って、私であると見当を付けた。
教諭の視線を追って、ジワジワと他の視線も私に集まった。
私は斜め前に座っている西岡という生徒を見遣った。皆は私を見ているが、西岡だけは一人知らぬ顔で黒板を見つめていた。その背中は、自分は無関係だという態度に満ちていた。
「いいですか、過ちは誰でもあることです。けっして恥ずかしいことではありません。それをちゃんと受け止めて反省できる人を、先生は勇気のある人だと思います。心当たりのある人は居ませんか」
どうして西岡でなくて自分なのか。私の行為は一瞬の悪乗りだったが、それには西岡の行為が絡んでいた。西岡の行為は日常だった。
西岡はどうして自分から言わない。そういう憤りと、これから始まるだろう災難をどうやって我慢するのか、そんなことで頭がボーっとしていた。
経緯はこうだった。
私は、ひとことふたことでも、長谷とコミュニケーションをとってみたい思いに駆られていた。しかし遂にそれは達せられなかった。何を言っても長谷が返事を返してくることはなかった。
無視しているのではなくて、今思えば、長谷には恐らく家庭でも話をする習慣がなかったのだろうと、そんな気がする。
西岡はクラスのなかの、大阪弁で言う----ええしの子----だった。
金持ち、家の学歴が高い、いつもクリーニングの効いたパリッとした服を着ている。
勿論本人も成績は優秀だった。直に通知表を見たことなどないが、そういうことになっていた。
しかし彼は、自らが上流家庭であることを他人にも認識させるようなところがあって、故に貧乏くさいガキタレには軽蔑心を持っている気配があった。
彼は、長谷が近くをたまたま通ったりするときに、あからさまに顔をしかめて鼻を摘まんでいた。それが一度や二度ではない。
私は、なかなかコミュニケーションを取れない長谷をちょっとおちょくってやろうと、そのときつい思ったのだった。まさか鼻を摘まんだりはせぬが、手で仰ぐ仕草を一二度やったのだった。
それを樺木が見ていた。
教諭は続けた。
「いいですか、これはその人をどうのこうのというのではありません。むしろこのことを切っ掛けとして、自らの非を素直に認めて以後の振る舞いを正せれば良いのです。授業の目的はそういうところにあります」
皆は真剣な顔で黙って聴いていた。
「でも、どうしても自分から言い出せないのなら仕方がありません。樺木君、それは誰ですか」
何の戸惑いもなく樺木は答えた。
「浜谷君です」
へえーっと、全員から声が上がった。意外に思ったのだろうか、それともお追従だったのか、私には見当がつかない。
私は一瞬、身体じゅうに蕁麻疹ができたような感覚に襲われた。汗が出て、小さな針で突付かれるような痛痒い感触が、全身を這った。
教諭は黙ってしばらく私を見つめた。どのくらいだったか、長く感じた。
立てと即しているのだった。でなければいつまでもこうしているぞと。
私は、おずおずと尻尾を下げた子犬のように、ゆっくりと立ち上がった。
全員の視線が再び私に集中した。足に力が入らずに、今にもヘナヘナと座り込んでしまいそうだった。
「長谷さんを、臭いと言いましたか」
教諭の声は、この時点ではまだ優しげだった。
「いえ、臭いとは言ってません…」
私は、俯いて机の上をぼんやりと眺めながら、小声で呟いた。
「え、なんと言いました? もっと大きな声で答えなさい」
「臭いとは言ってません。ただちょっと、素振りをしただけです」
それだって、西岡のようなあからさまな態度ではない。それが今にも口を吐いて出そうだった。
しかしそれを言えなかった。それはただでさえ樺木のような嫌な奴がいるのに西岡という敵を新たに作ってしまうことになる。しかも、なによりそれは告げ口であり、やっていはいけないことのように何故かそのとき感じたのだった。
出来の悪いガキタレ仲間でも、教諭に告げ口する奴は極端に嫌われていたのだ。
続きます。