私は教諭に一礼して教室を出た。教諭はまだ座ったままでいた。残務整理があったのだろう。
その方が良かった。教諭と一緒に廊下を歩くなんてまっぴらだった。
廊下か、もしかしたらその辺に中森が居るかも知れないと思ったが、居なかった。さっきは気のせいだったか。ずいぶん時間が経っているので、無理せず帰ってくれて良かったと思った。
とぼとぼと正門を出て歩き出した時、おい、と声をかける者があった。
中森だった。
「待っててくれたんかやっぱり」
中森は、もし虹教諭に見つかったらまずいと思ってすぐに隠れたのだと言う。下手すると自分が男性教諭を呼んできたように思われかねないと思ったという。
扉の後ろに見かけたのは気のせいではなかった。
「すまん、帰ってくれても良かったのに」
「ほんまは一回帰ったんや。でも気になって」戻ってきたらしい。
しばらく待っていたが、いくら待っても出てこないので一度帰った。しかしどうにも気になって様子を見に来たらあの男性教諭に見つかった。こんな時間に一人で何をしているのか。
教室を覗いてみて、姿がなかったらそのまま帰るつもりだったという。
私たちはトボトボとしばらく同じ方向を歩いた。五月の夕方はまだ明るかったが、ほんのり赤みが差しつつあった。
「せっかく予定してたのにな」
中森は残念そうだった。新しいプラモを買ったばかりで、でもどうしても上手く組めないところがある。それを私に見て欲しいのだった。
私も待ちきれなかった。水曜日は他の日より一時間少ない。だからそういう予定をしていた。
「またいつか遊ぼ」
そう言うしかなくて、私が気のない返事をすると中森は眉に波打たせて訊いた。
「お前、先生と何かあったんか」
訊かれてもわからない。なにがこの原因だろうと考えてもみたが、分からないのだった。
私はちょっと首を傾げただけで、答えなかった。
「そやなかったら変やろ」
「そやな…なんでやろな」
「ノートのこともあったし、絵のこともあったやないか。あんなん変やで絶対」
中森は中森でそれなりに憤っているようだった。
しかし、私がろくな返事をしないので、中森もしばらく黙った。
「長谷は何組やった?」
「え?」
私が唐突に訊いたので中森は戸惑った。
「なんや長谷て…」
「あいつ、三年の時何組やったかな」
「知るかいな」
「お前も知らんのか」
「長谷がどうしたんや」
ピントのボケた奴だなと、中森はそんな顔をしていた。
「なんか変やな」
「変て、なにがや」
「うまいこと言われへんけど」
「変はお前やで」
中森はちょっと呆れたようだった。私の反応がことごとくズレているので、以後は互いに言うこともなく黙ったまま歩いた。
やがて分かれ道に来た。
「ほな、明日またな、元気出せや」
そういって中森は去っていった。
その後ろ姿をちょっとの間見送って、私も歩き始めた。
身体が怠かった。気分的に落ち込んでいるから余計なのだろうけど、いっそこのまま動けなくなるほど怠くなってしまえばいいのに、そうすれば学校を休める。
ついついそんなことを思った。
学校を出た辺りから、私はやや強い尿意を覚えていた。中森と別れてからそれを我慢しつつ速足で歩き、家に辿り着く頃には我慢ができないほどになり、玄関を開けるなりそのままトイレに飛び込んだ。
長い放尿を終えると、体が激しく震えた。いつもの感じではない。悪寒だった。
「どないしたん、お腹でも壊したんか」
夕飯の支度をしていた母が、私を険しい顔で見ながら言った。
私に何か言う時は、概ね母はこういう顔をするようになっていた。いつの頃からか、あまり母の笑顔を見たことがなかった。
「中森とこで遊んでた」
私は適当なことを言った。あれこれ言うのは面倒だったし、先生に叱られていたなどと言う必要もなかった。
兄はまだ帰っていなかった。高校生の兄は陸上部に入っていて、いつも帰りが遅かった。
「待ってたのに遅いからどうしたんやろと思てたんや」
用事を言いつけるつもりで母は待っていたのだった。しんどいのにと、戸惑い顔になった私に、母は少しは異変を感じたようではあった。
「どないかしたん?」
「ちょっとしんどいだけや」
「しょうがないな、使いに行ってもらおうと思ってたのに」
私の家庭は、つまりはそんな感じだった。今にして苦笑に堪えない。我が子の具合より、使いに行ってもらえるかどうかが先の問題なのだった。
しかしこれは、私の家庭だけではなかったろう。当時の世間の普通の光景だったに違いない。
「なんでもない、遊んで疲れただけや」
私は、ついそんな嘘を言った。本当は今にも横になりたかった。
「あそこの八百屋さん知ってるやろ、あそこで魚焼いてもろうてるんや。取ってきて欲しいねん」
「お金は…」
「払うてある」
私はそのまま、また家を出た。あそこなる八百屋は遠くはないが学校の向こうにあり、その時の私にはうんざりするほど遠かった。
学校の前を通らぬように迂回して歩いた。もしかして、帰宅時の虹教諭と鉢合わせする可能性もないではなかった。
八百屋で名前と要件をげて、新聞紙に包まれた焼きサバを受け取って、来た道をトボトボ歩いた。
もっと厳重に包んでくれれば良いのに、まだ暖かいサバは、樹木をスライスして作られたフネと呼ばれる粗末な容器と、上から精々新聞紙一枚で包まれて輪ゴム一二本かけてあるだけだった。
それを両手で持って夕方の整地されない道をフラフラと歩いたが、さすがに疲労は避けられぬものになって、道路を横断している最中によろめき、転んだ。車が横から来ているので慌ててしまったのだ。
サバの包みが手から弾けるように飛んで、中身が出てしまった。
慌ててそれを拾い上げ、四つん這いの格好でサバを包み直して、今度は手から離さぬようにしっかり掴んで、ようやく立ち上がった。
車は速度を落として、避けるように傍を通り過ぎて行った。
しんどい。明らかに身体に異変が起きていた。熱でもあるのではないかと、おでこに手を当ててみようと思ったが、両手でしっかりとサバの包みを掴んでいて、今度は離さないぞとの決意だった。
フラフラと歩いてようやくのこと家に辿り着くと兄が帰っていた。
学校で何があるのか知らないが、兄は私に対しては概ね不機嫌だった。事あるごとに、細かいことに、まるで因縁をつけるように私を叱った。
親が怒ると必ずいっしょになって叱った。
六つも歳が離れているので何があっても勝負にはならない。長じて私が充分に対抗できるようになるまで、兄は日々不愉快なことをしてくる嫌で奇妙な存在でしかなかった。
世の中には弟を大事にする兄と、八つ当たりの対象にするのが存在するようだ。兄と仲の良い友達を見ると羨ましかった。
私たちは歳が離れすぎていたのかも知れない。
「なんやこれ、あんた落としたんかこれ」
包みを開けた母が素っ頓狂な声をあげた。黙っていたが、汚れが付着し、粗雑に包み直されているので分からぬはずがなかった。
「途中でこけて…」
か細い声で、私はもうすっかり物事を諦めていた。ああ、また叱られる。
兄がいきなり私の後頭部を叩いた。
「お使いひとつちゃんとできひんのか」
自分も食べるであろうおかずを落っことしてしまいやがった。そう思うと腹も立ったのだろう。
私はそれを我慢して、黙って隣の部屋で転ぶように横になった。その様子を見て、さすがに母も様子がおかしいと思ったようだった。
「この子変やで」
言いながら私のでこに手を当てた。
「あれれ、熱あるでこの子」
具合の悪い弟を叩いたばかりの兄は黙って突っ立っていた。
「あんた、布団敷いたり」母が兄に言いつけた。
「具合が悪いんやったらなんで言わへんのや」
そんなことを言いながら、兄は狭い押し入れから布団を引っ張り下ろした。
どこか不承不承だった。
ぼんやりする頭で私はそれを眺めた。
いよいよもうぐったりとして、服を着替える元気もなく布団に潜り込んだ。
本格的な風邪をひいていたのだった。
つづきます。