振り返ると、差した日傘の水色の陰のなかでママさんは穏やかな笑顔を浮かべていた。商売道具を乗せた乳母車を片手で押して、子供がスカートの裾をしっかり握っている。そのすぐ横に篠田がまるで兄貴のような顔をして一緒に歩いてくるではないか。
ぬぬ!っという気持ちに一瞬なるのだった。その険しさとママさんを見る嬉しさとが微妙に混じった複雑な表情だったに違いない。
私はそばに駆け寄ってママさんにちょこっと首を傾げて挨拶をした。
「おおきに、待っててくれたん」
ママさんの涼しい声がした。
「はい、もうすぐ試合終わります。そしたら皆でかき氷食べます」
私の声は弾んでいた。この時のためにすべてのことを企んだのだ。そしてようやくそれが実現しようとしている。私は篠田と頷き合った。
篠田は私にちょこっとウインクして女子たちの中に分け入った。
「おおみんな、ちょっと場所開けたってくれや、そろそろ喉乾いたやろ。ちょうどええ時に氷売りにきはったで」
女子たちも皆一斉にそちらを振り向いた。
「あ、かき氷の機械やんか」
女子の誰かが叫ぶように言った。
「ここで売らはんのん」「いや、可愛い子も一緒やわ」
一瞬そちらが盛り上がる。幸先良いぞと私は思った。私はしばしそれを眺めた。
篠田は子供を木陰に座らせてなかなか面倒見の良い所を発揮して私を振り返った。
「浜田、お前は野球に専念や。なにしろ審判や、頑張ってくれや」
私が黙って何度か頷くと萩野が後ろから私の肩を叩いた。
「なんや、またまたどうしたんや」
「氷売りにきはったんや」
「それは篠田の声でわかったけど、お前ら何か関係してるんか」
「試合終わったら氷食べよや」
「なんやそれ…」
萩野は呆れたように笑った。
「それはええけど、試合中やで」
「おお、そやった。すまんすまん、プレーボールや」
その気になっていた吉田が座り込んだ。
「せっかくその気になってたのに気がはぐれてしもたやないけ」
これはきっと打てなかった時のいい訳だろう。吉田はなかなか工夫のある奴なのだ。
「きょうはええ試合や、皆の心の中にきっと残るで。終わったらかき氷食べよや」
ニコニコと妙に機嫌の良い私を吉田はポカンと眺めた。
「ええからええから試合や試合や」
萩野がポンと私の肩を叩いた。
あともうちょっとや。皆で食べるぞ。売上に貢献せんとあかん…。私のこころは逸っていた。しかし同時に、ここは自分の見事な審判ぶりをママさんに見てもらうのも悪くはない。そんな思いも湧くのだった。
すると急に気合が入った。私はサッと右腕を挙げた。
「おーし、ピシッと行くで今からプレーボールや」
私がそう言うと、吉田は気合を入れ直すようにもう一度二度素振りを繰り返してボックスに立って地面を踏みしめた。
それまで腕や首をグルグルと回していた橋田が萩野の構える位置を見た。どうせ見たところでそれ程のコントロールはない。しかし遂に橋田も最終回まで投げてきたのだ。前回のようにボカスカではない。これは褒めてやっても良いことだった。
吉田は浅丘程の長打はない。しかしバッティングセンスは悪くないことを以前から橋田は知っている。どんな経緯があったか知らぬがここは要注意だと感じた橋田は取りあえず慎重に外へ投げた。球は外低めに流れた。
「ボール、ワンボール」
私は前回よりもずっと大きな声を張り上げた。準備で忙しいだろうが、ママさん、ちょっとでも見ていてくれ。
「おーし、ええぞええぞ」
萩野は景気付けの声を張り上げて返球する。
二球目は高めに浮いてこれも外れた。明らかなボールなので吉田は振る気配なく見ていた。
「ボール、ボールツー」
萩野は押さえろ押さえろというジェスチャーをして返球した。
吉田は先ほどの徳田の話を思い浮かべていた。チョコンと当てるのではなくその瞬間に力が入っているという四組のバッティングに関する徳田の観察だ。吉田は元々コツンと当てるのは上手い。なんとなくその意味が分るような気がしていた。
三つボールはまずい。橋田はそう思った。仮に外れても振らせるような投げ方はできる。強打者というでもない吉田だから、あまり慎重になるのも考えものだ。気楽に投げた方が良いのかも知れない。普通にさえ投げていればそうそう吉田に打たれるものではない。
萩野も考えは同じだったと見え、ドンと座ってど真ん中に構えた。そこを目がけて橋田は抜いた訳ではないが、と言って渾身でもない球をなげてきた。
「ここだ!」
と吉田は思った。打てそうな所へ来たときのバッティングイメージをずっと思い浮かべていたのだ。
続きます。