雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

水色の日傘 27

ほんまに油断も隙もないな----私は腹の中でそう思った。徳田の視線は成り行きに注目しているようでチロチロと水口の背中やお尻付近を移動するばかりだ。女子たちは皆夏物の薄着だ。頭の中で何を考えてやがる…。こういうのを見るとやっぱり嫌な奴だと思わざるを得ないのだった。

三組主将の浅丘は他のメンバーと傍観を決め込み、萩野も半ば成り行きを面白がっているようだった。徳田に喧嘩を売られた形の当初のあの怒りはいったいどこにあるのやら。

 

中学生同士が顔見知りなら二人の話に任せておいた方が良いかも知れない、しかし形だけだとは言えやっぱり私は主審だ。もしかしたら出番かも知れないと思った。早く言えば女子たちの前で自分を売るチャンスだった。

私は一歩前に進んで、少々大袈裟に田中くんに向かって頭を下げた。

「あー、すみません、僕はたまたまきょう主審をやっている者です。四組の浜田と言います。たまたま三組の長谷川がデカいのを飛ばして、こういうことになりました。ここまで飛ばす奴を見たことがないので、僕らもビックリしました」

私がそこまで言うと徳田は--なにを!--と言う風に一瞬顔を歪めた。

 私は無視して続けた。

「打った長谷川からもひと言詫びを入れますので、どうか機嫌を直してやってもらえませんですか」

そういって私は長谷川を手招きした。長谷川は、ちょっと御免と言いつつ、わざわざ水口と徳田の間を割って入るような格好ですり抜けて前に進んだ。水口はちょっと振り向いて前に避けた。徳田は不機嫌に--なんやわざわざ--という顔をしていたが文句の言える筋合いでもなかった。

長谷川はヌボーっとしているようで、意外に物が良く見えている奴なのだった。私の並びにくると、その大きな体を小さく丸めてちょこっとだけ帽子に手を当てて頭を下げた。

「びっくりさせたのは僕の打った球です。どうもすみません」

そこまですると、さすがの田中君も苦笑いして「ええわええわもう、お前が打ったんか、そら大きいの飛ぶわな」と笑い飛ばした。

とっさに悟ちゃんが満足げに田中くんの肩を叩いた。

「お前、なかなかええとこあるがな、これからもよろしゅう頼むで」

言われた田中くんはなんとも言えぬ顔をしていたが、それでも急にニヤついて悟ちゃんに問うた。

「小学生の野球になんでお前が噛んでんねん、どんな経緯や」

そこで悟ちゃんがカクカクシカジカと説明すると田中くんはわっはっはと笑い始め「なんやそうやったんか、面白いがな、それやったら俺も塁審手伝うたろか、俺は美術部の人間やから文化系やけど、野球のルールくらいは知ってるで、これでも南海の杉浦のファンやで」

田中くんは得意げだった。

 

聞くなり私は反応した。

「なんや、そうですか、僕もそうなんです」

私は自分の野球帽の南海ホークスのマークを指差した。

「なんやお前もか、杉浦かっこええな、あのアンダースロー、早い球、誰にも真似できひん」

「そうです、男前やし、日本一です」

「そうや、大阪やったら南海ホークスを応援せなあかん。大阪の人間がなんで巨人を応援するんや」

「その通りです」私は無条件に相槌を打った。

阪神タイガースがあるがなというけど、あれは神戸のもんや、純粋な大阪とは違う。かと言うて、近鉄はあまりにもしみったれとる」

近鉄には悪いけど、僕もそう思います」

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注、近鉄は日本一の鉄道会社だし、阪急はお金持ち路線。なのに野球の近鉄阪急は関西でもボロ球団と言われた。後に強くなるとは誰も予想しなかった。強くなっても人気は知れていた。

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不思議な成り行きになった。さっきまで不愉快な顔をしていた田中くんが急に機嫌良くなった。気のせいか、そうして見ると意外に男前のような気もするのだった。

「ええ成り行きや、世の中こうやないとあかん」

ことが丸く収まって、悟ちゃんはまるで自分の手柄だと言わんばかりの満足げだった。

「きょうは誘われて応援に来たけど、面白いことになったがな、今から田中が塁審やってくれる言うで、小学生の野球に中学生の塁審が二人居るなんて聞いたことないがな。贅沢なもんや」

皆ゲラゲラと微笑い出した。さっきまでの緊張が嘘のようだ。

幸ちゃんも嬉しそうに言う。

「君ちゃんも良かったら一緒に応援してよ」

話が急に和やかになったので君ちゃんもすでに笑顔になっている。

「そやけどうち、どっち応援したらええのん」

「彼氏応援したらええやんか、審判してくれはんのでしょ」

「いや、うちらまだそんな仲ちゃうよ」

「これからなるんでしょ」

皆ゲラゲラと笑っている。あまり表情のない井筒までも、見たことのないような笑顔だ。ただ徳田だけが、笑うような笑わぬような煮えぬ表情だった。

田中くんが悟ちゃんにこっそり耳打ちした。

「きょうのことは内緒やで、学校で言うなや」

「わかってるわかってる、心配すな、俺がそんな男に見えるか」

耳打ちだからはっきりは聞こえない。しかし気配で、まあそんなことだろうとわかるのだ。

ボールを返してもらって皆位置に戻った。田中くんは悟ちゃんにそっちをやってくれと言われてサード付近に立った。

 

一段落するとふと気になった。篠田がずっと居なくなったままだ。いったいどこでなにをしているのか。もしかして腹でも壊して家に帰ったのだろうか。

それはあり得るかもしれない。しかしそれにしても長い。副審なのだからその辺に居てもらわねば困るのだが、それを放置してスコアボードも書くでもなく姿が見えないままだ。

この試合はそもそも篠田が企んだものだ。それなりの理由がなければ行方不明になるはずがないのだった。

 続きます。