赤木さんが川原の土手に降りてなにやら激しく怒っているのがその後も時折見られた。幸平は多少それが気になるのだが、わざわざ赤木さんの居ない時にその場へ行って何をしているのかを確かめるのはやっぱり躊躇われた。しかも、そこでいつ赤木さんと鉢合わせするか知れたものじゃない。
が、他の誰もは関心すらないようだった。あいつのことなんか知るかと、山ちゃんも鈴木さんもそんなところだった。ここで他人に関心など持ったって…、幸平もそう思うのだが、謎ではあった。謎は気になるものだ。
嫁がその後も度々顔を見せるようになった。三時の休憩にとお菓子などを持ってくるようになった。こういうことは以前にはなかったそうだ。そして、皆さんで食べてくださいと、いつもではないにしても幸平に声をかけるようになった。それはどうもと頭を下げて、しかし嫌な予感がしないでもなかった。
「いきなりどうしたんだ」
「一日くらいだったらどこかの土産ってこともあるだろうがな…」
しかし二人とも思い当たっているようだった。
「急に丁寧になったじゃねえの」
「なにがあったのかね」
お菓子をボリボリとやりながら明らかにとぼけていた。
労働しているので三時にもなれば適当に小腹が空いている。それはそれで有難い。幸平はチラチラと二人を横目で眺めつつ自身もお菓子をかじった。赤木さんはどういうわけか全く手を付けない。食べないのですかと問うても、ああ、とだけ返事がして、またいつものようにお茶を足元に流した。絶対にそれは守っているようだった。何等の意味もない行為。妙としか言いようがないのだった。
新たな仕事に入ると幸平は赤木さんを手伝う。幸平が丁寧に接するのでこういう時の赤木さんは機嫌が良かった。それをみると川原で激高している赤木さんは想像できない。いったいなにがそうさせているのか、やっぱり気にはなるのだった。
幸平と赤木さんとで材料を準備している間、山ちゃんは特に仕事らしい仕事もなく組み立て時に使うボンドに水を混ぜたりして一応チョコチョコと仕事をしている風に見えるが、実は暇なのだった。鈴木さんは個人の作業をしているので仕事があるのか暇なのかは元々わからない。鈴木さんにとってここの仕事は老後の惚け防止のようなものかもしれない。
幸平が来るまでは材料の準備は赤木さんと山ちゃんの二人でやっていたのだろうか。クールに観察すると、悪い人ではないが山ちゃんはブラブラしている時間が割と多いのだった。しかも専務も婆さんもそれを気にしている様子がない。親父は元から作業を一々みていない。あまり詮索してもしょうがないが奇妙と言えば奇妙なのだった。
幸平は時折専務に呼ばれて専務の個人的な仕事を手伝わされた。これが幸平にはとても不快だった。なにしろ物事を丁寧に説明しない。丁寧どころか声を発しない。機械の音が煩いということもあるが、それでも聞こえないことはない。顎を突き出したり口を尖らしたり指をさしたりで何か言うのだが、それが一々わからないので戸惑っていると怒鳴るのだった。
早く言えばそれはいじめにあっているとしか言いようのないものだった。この人は根本的に人間が歪んでしまって、もう治ることのないのだろう。幸平はそう思った。
そんなことが何日か過ぎた引け。ここでは作業者が一緒に帰るとか挨拶をしてわかれるとかは全然ない。終わったら作業着のまま着替えることもなくいつの間にかいなくなるのだった。作業着と言っても自前で、汚れても破れても良いようなボロ着のまま帰宅するのだった。赤木さんは本当に、まるで幽霊のようにいつの間にか居なくなっていた。
幸平が作業場を出ようとすると嫁が表を箒で掃いていた。ちょこっと挨拶をして自転車に向かうと「お疲れ様」と声をかけてきた。家は近くなのかと続けて訊くので、自転車で10分少々行ったところです。更に場所を問われて、なんとかという神社のそばを通ってしばらく行くと使われていないゲートボール場があってその付近ですと大雑把に説明した。嫁は更に、奥さんはいらっしゃるのと訊くので、いえいえ、私は独り者でしてと幸平はややはにかみながら答えた。
嫁は空をちょっと見上げて、もしかしたら雨が降るかもといい、自転車だと雨は大変だから気をつけて帰ってくださいと言った。
やけに親し気に話しかけて来るなと思いつつも悪い気もせず、ああどうもとニコッと笑ってサドルに足をかけた時、工場の扉の向こうで半身になる格好で専務が睨むような眼でこちらをみていたのと眼が合った。
幸平はちょこっとだけ頭を下げて逃げるように走った。嫌な眼つきだった。