現状はそれなりの蓄えがある。母には遺族年金があるし兄の洋平も働いている。そこに幸平のバイトの賃金を足せば現状それほど苦しくはない。だが先を考えるといささか心もとない。
兄は一応社員扱いになっているが寸志があるだけでボーナスはない。マネージャーになれそうだと浮かれてはいるが、そもそも業態からして長期働けるかどうかは疑問だ。わかっていることは住宅ローンが延々続くということだけであり、わからないのは明日の自分たちだ。実際幸平自身住宅を購入したばかりで会社を去ることになるなど想像もしなかった。明日は誰にもわからない。だから、少々のことがあっても我慢はするのだと自分に言い聞かせるのだが、労働の苦しさよりも劣悪な雇用側との関係で揺れ動くのだった。
ある時珍しく若い女性の姿があった。ちょっと小太りで、美人というようなものではないがいつも婆さんばかり眺めているので少し眼に着いたのだ。作業服でもない家庭の普段着なのでここの娘かと思い、チラッとその姿をみたら、どこにいたのか婆さんが突然後ろから声をかけてきて「美人でしょ」と言った。
「はあ、まあ…」
幸平が戸惑っていると婆さんは嬉しそうに言うのだった。
「嫁なのよ」
言われてもピンと来ない。誰の嫁なのか。あの尊大な専務の嫁なのか。どうでも良いが幸平は咄嗟にここはお世辞を言うところだと察した。
「美人ですね」
精一杯だ。だが一応は円満顔で性格は悪くなさそうだ。その嫁が、なんの理由かか知らぬがこのごろ時折姿を見せて、その度に専務がのろけるような甘い嫌な声を出すのだった。笑った顔など見せたことのない尊大顔の専務が見せつけるようにニタニタとしている。
幸平はゾッとした。嫁らしき女性には別に興味はない。だが専務の嫁としては出来すぎだ。おそらく専務もそれがわかっている。
「ああ、あれな、自慢してんだよ」
山ちゃんがこっそり教えてくれた。幸平の前にはやはり若いバイトが居たようだ。八ヶ月居たようだが、あるときやっぱり嫁が姿を見せた。その度に専務がニタニタする。お前らとは違うんだぜ。バイトが新規に来る度にそれをやるらしい。すると専務がわざわざ呼んでいるのだろう。
なるほど、鈴木さんはともかく山ちゃんも赤木さんも、そして幸平も独り身だ。つまり専務からみると世間で言う結婚できない男なのだった。
あほらし、と思ったが、その嫁が幸平にある時ふと言葉をかけてきた。今まで何をしてたの?
「なにをって仕事ですか」
嫁は幸平より随分若い。しかし相手が雇用側だから幸平は一応敬語を使った。
「難しい学校出てるのね、昔居た会社も大会社だし」
嫁は履歴書を読んでいるようだ。
「履歴書に書くとああいう風になるんです、実際たいしたことないです」
実際大したことはない。学校といったって各種学校だ。今では一応の学歴になるが当時はならなかった。ただ学んだ部署が電子工学とかもったいぶった名前になっているだけだった。幸平はぶっきらぼうにならぬように答えたが、実際にあまり真に受け止められても困るのだった。
嫁は小声で囁くように言った。
「気をつけてね、あの人、学歴のある人嫌いなの」
そういって去って行った。やはり性格は悪くなさそうだ。そう思うと容姿もちょっとマシに見えないでもない。
「あれも木工屋の娘でな、木工屋同士の見合いだよ」
休憩時間に鈴木さんがポツリと言った。鈴木さんは古い職人だけに周辺の事情には明るいようだった。あっちのこっちの木工所のあれこれを良く知っているようだった。しかしそっちの木工所はとっくに閉鎖されているとか。
それが事情なのかもしれないが、それにしてもあんなのとくっついて、彼女は専務の尊大さや素振りの嫌らしさを知っているのだろうか。
ふとそんなことを思うのだった。