私が小学生だったころ、放課後の遊びといえば、専ら付近に点在していた池でのザリガニ釣りや公園での草野球だった。
私はザリガニ(当時関西ではエビガニといっていた)釣りは割りと上手かったのだが、どういうわけか魚釣りは苦手で、他人と同じことをやっているつもりでも自分の竿には全然かからない。得手不得手はあるものだとその頃から認識していた。
球技と名の付くものは全然ダメで、野球は勿論、ドッジボールやバスケットもダメ。運動神経は鈍いようだった。だから、たまに人数が足りなくて公園での野球にお呼びがかかるのを内心恐れていた。
野球は本当にまったくの苦手で、いささか弁解めくが、私は子供の頃から上を向いたまま歩くと平衡感覚がおかしくなることがあって、このためにフライを受けることがとても難しかったのだ。
といってゴロが上手いわけでもない。要するに下手糞なのだ。
それがまた、同級生の女の子たちが観戦していたりすると球も見えないほどあがってしまって、打つのは三振すれば終わりだが、守るのはまったくみっともなくて、それを見越して相手チームがあそこを狙えと言う始末で、私ができることといったら、頼むから自分のところへは飛んでこないで欲しいと願うことだけだった。
わかっているのに、そんな私にお呼びがかかることがある。メンバーが揃わないのだ。
それでどうして出て行くかというと、早く言えば渡世の義理みたいなもので、「おってくれるだけでええんや。悪うはせんがな、頼むわ」なんて、小学生なのに安物時代劇の十手持ちみたいに頼まれると、いまいち断りきれないのだ。
少年野球は人数さえ揃えばよい。相手チームも同じ理屈だ。だから私と同じようなのが一人くらいは混じっている。こなくていいのに球が飛んできてエラーばかりして野次を飛ばされている奴がひとりくらいは居るものだ。
そんな奴に親近感を持つのも当然だった。
試合は相手クラスの、最近転校してきた徳田というのが打ちまくって大量点差になってしまい、こうなると我がクラスもやる気が失せてしまいダラダラになってしまった。
観戦に来ていた女子たちも、最初はキャーキャー騒いだり悲鳴をあげたりしていたのだが早くにダレてしまった。
面目をなくしたのは我がチームのピッチャーで投げる度に打たれて話にならない。幸いそれほどの恥を掻かずに済んだ私は、負けたことよりも早く済んで良かったと内心思っていた。誰かが五回でやめようと言い出してくれたのだ。無論負けている当方がやる気をなくしたのだった。
当時のルールでゲームは七回が基本だったが、事実上の五回コールドだった。
整列して一応の挨拶が済むと、試合に関してあれこれ言いながらのお開きだったが、徳田は皆の話題を集めていた。当然だろうが、彼はまだやり足りないようだった。
私は徳田のことなどどうでもよく、相手チームの同類にそれとなく近寄って、半ば独り言のように、半ば話しかけるように呟いた。
「あーあ、また恥掻いてもたわ」
私を一瞬振り向いたそいつは、いささかぐったりしたようにベンチに座り込んでいた。
「お前の方は勝ったからええけど、こっちはさっぱりやで」
しかし、彼は私以上にうんざり顔で呟きを返した。
「そんなんどうでもええわ」
篠田という奴で、それまで一度も同じクラスになったことはないが、顔は見知っていた。
グラブやバットなどの道具の類は持っていない。私と同様、試合の時だけ誰かのものを借りるのだ。それだけでもいささか肩身が狭い。
「いつもメンバーに入ってるんか」
篠田が訊いてきた。
「たまたまやがな、人数揃わんとか言うて」
「俺と同じや、もう今度は断るわ」
「守ってる間中ヒヤヒヤせなあかんもんな。ほんま、ええ迷惑やわ」
篠田はうんうんと頷いている。
「無理して参加させよって、終わったらご苦労さんのひと言くらい言わんかいアホめが」
篠田が本気で怒っているようなので、私は面白くなってしまった。
「ほんまや、わっはっは」
二人でぶつくさ言い合っていると、いつの間にか二人だけベンチに残された格好になった。他のメンバーはダラダラと引けてしまったが、私たちは、何故か良い友達になれそうな気がして、互いに去り難たかったのだ。
しばらくぼんやりした後、私から語りかけた。
「お前のクラスの徳田とかいう奴な」
「ホームラン打ったやっちゃな」
「そや、あいつ、ベース一周してるときの顔見たか」
「わっはっは、見た見た、これ以上ない得意面やがな」
「メンタ(女子児童のこと、メスを転じてメンタと言っていた)もキャーキャーいうとったし」
「あいつ、転校してきたやっちゃけど、野球上手い言うて、皆びっくりしとるんや」
あの時代、小学生は野球が上手いだけでちょっとしたスターだった。
「家にバットもグローブ(当時周辺の子供たちはグラブではなくてグローブと言った)もようけ持っとるらしいで」
「家、金持ちなんか」
「そやろ、どうせ親に買うてもろとるんや」
私は、いささか身分の違いを感じて多いに不愉快だった。
篠田は続けた。
「きょう、応援にきとったお前の組のメンタのなかに、ベッピンひとり居ったやろ」
心当たりがあったが、私はわざととぼけた。「そんなんおったかな」
「一番背の高い…」
「水口か、桃色の花柄の服着とった」
「あー、そやそや」
「桃色のサンダル履いとった」
「サンダルまで見てへんけどな…」
「水口がどうしてん、お前、気いあるんか」
私が言うと、篠田はブッと音を立てて噴き出した。
「言われる思うた。俺とちゃうがな、その徳田やがな」
「徳田がどうしてん、もしかして水口とイケイケかいな」
「いや、イケイケとちゃうやろ。徳田がどうも一方的に気いあるらしいんや」
篠田は、安物探偵が何かに狙いを付けたようなねめた目つきになっていた。
「ほんまかいな、転校してきたばっかりで水口に目を付けるとは厚かましいやっちゃな」
とはいえ、凡なる生徒と目立つ生徒との違いは如何ともし難いのだった。
「片想いやな。そやけど、それやったらなるほどや。それで張り切りおったんか」
納得するものもあったが、それはそれでムカツクのだった。どうやら徳田は油断のならない奴のようだ。
「張り切ったら打ついうのがどもならんわ」
吐き捨てるように言う篠田のやるせない顔つきを、私は笑わずに見つめた。
「好かんやっちゃな」
私も思い切り顔をしかめた。
篠田は更に続けた。
「その水口とかいう女、牛乳屋の娘やて聞いたけど」
「そや、大人になったらええ乳出るであいつも」
「そこへな、徳田がほとんど毎日牛乳買いに行きよるらしいんや」
「ほんまか」
「バット二本ぶら下げて、いま練習してきたとこいう感じで、野球少年気取っとるんやな」
「おえー!」
私は思い切りえづく振りをしてみせた。
「ばったり店先で遇わへんかと思うとるんや」
言いつつ、篠田の眉は大きく波打っていた。
「下心みえみえやな」
聞いていて私も増々むかむかしてきた。
「それやったら、いっそ配達したったらええんや、いちいち店来んでもええ言うて」
「わっはっは、そやそや。今度水口に言うといてくれ」
言われずとも、私は後日、本当に水口にそう言うつもりだった。
「それにしても毎日牛乳一本やったら、それだけで俺の小遣いなんか飛んでまうで」
毎日牛乳一本飲んでどれくらいになるのか、ぼんやりと頭の中で計算してみた。
「ほんまや、俺なんかちょっとずつ貯めて、精々プラモデル買うのが精一杯や」
「なんやお前、プラモデル趣味か」
私は思わず聞き返した。
「うん、小遣い集めて、二百円か三百円くらいになったら買いに行くねん」
「俺といっしょやがな」
「なんやお前もか」
篠田の顔が急に明るくなった。
「うん、そやけど、小遣い毎日十円しかもろてないから、なかなか貯まらへん。少年(光文社から発刊されていた月刊少年雑誌)は兄貴と折半で買うてるけど、たまにタコ焼きも食べるし、夜店もあるし」
実際、日々僅か十円の小遣いでは貯金もままならないほど世間には誘惑が多かった。駄菓子屋での買い食いはこの上ない楽しみだったし、夏場は八の付く日に夜店があるので、これにはどうしても四十円くらい使ってしまうのだった。
篠田が溜め息を吐くように呟いた。
「俺、田宮のリモコン戦車欲しいねんけど、あれ七百円するやろ」
「田宮か、ええとこ目付けるな。あそこのはよそのメーカーのより本物っぽいんや」
「長谷川もなかなかやけどな」
「正月の楽しみやな。正月しか買えんわ」
「正月は映画もあるから難しいとこやな、お年玉次第や」
共通の話題でしばらく盛り上がると、私はいささか喉に渇きを覚えた。
「暑いなあ、喉渇けへんか」
すると篠田は広場の反対側を指差して言った。
「あそこでカキ氷売ってるみたいやな」
二人が居る位置から、広場のちょうど向かい辺りに陽除けに覆われた休憩所があり、そのテーブルに、手回し式のカキ氷の機械らしきものが置かれているように見えた。
「いつもあんな店出てたかな」
「さっきは見えんかったから、今来たばっかりみたいやな」
「お前、金持ってる?」
篠田が訊くので、私はポケットの中の十円玉を探って頷いた。
当時の子供は一々財布など持たない。ポケットにそのままジャラジャラと突っ込んでいて、たまに破れて落とすこともあった。
「ある。食べよか」
意見が一致して、私と篠田は、それまでのだるさが嘘のように元気良く駆け出した。
続きます。