雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

水色の日傘 11

誰も知らなかったが、井筒には四つか五つ違いの兄がいて、これが甲子園も望める有力高校の選手だった。

教え魔で、しょっちゅう高校の練習グランドへ井筒を連れ出して教えまくった。それが結構厳しく時には泣かされるので井筒は上手くはなったが野球にはすっかり嫌気がさした。家でもナイター中継すら見ることもなく、学校でも野球など関心もない風をずっと装っていたようだ。

余程うんざりしていたのだろう、でなければエエカッコシイが普通の子供時代で自分の能力を隠すなど珍しいことだった。

「わからんもんや」わっはっはと、萩野は豪快に笑った。「灯台元暗しや」

「ピッチャーもいけるんか」橋田が言った。

「今度は絶対に勝たなあかん、特に徳田に打たせたらあかん。俺が打たれたらお前が投げてくれ」

「そんなん…」井筒は戸惑った。橋田にも面子があるはずだ。

「俺が頼むと言うてるんや。野球はチームワークや、つまらんことにこだわってる場合やない」

橋田にしては驚愕するほどの異常な成長だ。

しかし、なるほどという理由があればガキタレでも納得する。それじゃ上手いのは当然だ。 

 

「お前、それだけ上手いんやから教えるのもできるやろ」

萩野の眼は真剣だった。

「教えるなんて、そんなん…」

井筒はさらに戸惑ったが、仕方なく控えめにいくつかを指摘した。

まず、草野球では後ろを越されるとボールが草むらなどに潜り込んで、それを探している間に走られる。なので、今まで後ろに逸らしていたゴロを半分でも前に落とすだけでもかなり違う。

公園の地面は整地されていないので、ゴロはイレギュラーするのが当たり前。うまく取れないでも恥ずかしくはない。そんな場合でもなるべく身体に当てて前に落とす。

「軟球やから、当たってもたいしたことはない。小学生の打球やし…」

硬球を見慣れている井筒にとっては小学生が使う軟球などフワフワボールだった。

「当たったら痛いと思うから上手く取れん。そやから、まず打球の前に行けるように反射神経を磨く。慣れてきたら当たってもこの程度かと思うようになる。顔以外やったらどこに当たっても大したことない」

 

言わずもがなのことだが、それを改めてしっかり練習しようと言うのだ。

「それにファーストは難しい。サードからの送球はたいてい山なりかワンバウンドや、山なりはしょうがないけど、ワンバウンドを補るのはやっぱり難しい」

「サードからは遠いからな」萩野は目を閉じて納得している。

「この前の試合でも、それでセーフになったのがいくつかあったし、あれをアウトにできると全然違うのや」

ファーストを守っていた黒田が唇を噛み締めた。

しかし先日の試合を、井筒はいつの間にか観に来ていたようだ。いったいどこに居たのか、本当に幽霊みたいな奴だ。江戸時代に生まれていたらきっと隠密にでもなっていただろう。

 

あれこれ話し合って、とにかく打球に当たって砕けろをモットーに練習することになった。井筒が淡々とノックを続け、萩野が声を張り上げた。

「怖がるな怖がるな。正面へ行かんかい!」

井筒は最初は緩い打球を飛ばし、様子を見ながら徐々に鋭くしていった。フライを捕るのは皆どうと言うことはない。強い打球のゴロを捕るのが問題だった。

空き地のゴロはどこへ行くかわからない。しかし徐々に破れかぶれのクソ度胸が着いたのか、少々イレギュラーしても身体のどこかに当てるようになった。時には顎や頬に球が当たっても大声を張り上げて堪えるようになった。

夏は日が長い。夕食時の腹ペコになるまで練習は続いた。

 

皆くたくたになって、ぞろぞろと帰宅する途中、駄菓子屋に立ち寄ってジュースやスルメ菓子などを食べながら、練習の成果をあれこれ話し合った。

事情が事情で、メンバーは余り気味だったので、参加する可能性のない私はすっかり気楽になっていた。こんな楽しいひと時が近頃あったろうか。
 
担任の赤木女教諭は、あるときふと気が付いた。頬や顎を赤く腫らしたり絆創膏を貼っている生徒がいる。アカチンを塗っているのもいる。

「いや! みんなどないしたん」

 驚愕する赤木教諭の前で皆はニヤニヤしているだけだ。

「け、喧嘩でもしたん」

そう訊かれても、皆はただいっひっひと笑っている。

「ちょ、ちょっと待って…」

教諭は慌てて教室を出て行こうとした。きっとどこかで乱闘でもあったと思って職員室へ駆け込もうとしたのだ。

萩野が慌てて止めた。

「ま、待ってくださいセンセ。なにもあらへんのです。心配せんでも」

「なにもあらへんて、その傷どうしたんみんな」

「こんなんたいしたことないです。子供の世界には生傷は当たり前です」

こういうことは秘密にしておこう。皆の共通意識で、それがなんとなく楽しいのだ

「ほんま?、ほんまになにもないのん」

教諭は黒板に向かっているときでも時折振り返ったり首を傾げたりした。

皆クスクスと笑っていた。私も本心愉快だった。

ところで私には、もうひと仕事残されているのだった。

続きます。