雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

水色の日傘--終章

「その、バラック小屋って、どこにあるんですか」

私は急くような気持ちになっていた。

「それはな、あのアパートからちょっと行ったところにドブ川が流れてるの知っているやろ、その川べりにあったらしい」

「ドブ川…」

「元々大家が個人用に使うてたみたいやが、そこをおなごはんでも住めるように手を入れて、そんなとこやろうな」

「詳しい場所はどこなんですか」

「わしもはっきりとは知らん。川べりのどこかやな。でも、小屋はまだあるかも知れんけど、そこにはもう居てはらへんのや、ちょっとの間だけ住んですぐまたどっかへ行きはったみたいやな」

 

私は頭の中で年表を繰るように考えた。私はノコギリ荘から五つくらいで守口市へ転居している。その後すぐにママさんたちが入ってきた。一年か二年してあの子が生まれたのだろうか。私たち家族は守口には一年程しか居らず、再び大阪市内に戻ってきた。守口で一年だけ幼稚園に通い、大阪に戻って小学校に上がった。あの子が生まれたのはその頃だろうか。

私は同地に九つまで居て、後に公園の近くに転居し、中学生になる頃にはまた転居した。篠田と企んで三組と試合をした頃はママさんは亭主に逃げられた後、まだあのアパートに居たのかも知れない。そして程なく追い出された…。

私は言葉もなくしばらく考え込んだ。囲い者というのは、つまりはそういうことだ。脂ぎった禿げとママさんが一緒にいることを想像してやけにむかっ腹が立った。

しばらく話が途切れた後、工場長がゆっくりとまた諭すように私に語り掛けた。

「あのな、よう聞きや。囲われものいうたら、どうせろくなことは想像せえへん。そやけど、わしが聞いている限りでは、あの大家はどっちかいうたらそない悪い人やないらしい。むしろ面倒見のええ人やったと聞いてる。カミさんの眼があるから追い出したことになってるけど、実はこっそり小屋に一時住まわせて、わしが思うに、仕事を世話したんやないやろか」

私は思わず工場長の顔を見上げた。

「そんなことできるんですか」

「そら伝手があったらできるやろ、あのアパートの大家になるくらいの人やしな。そやけど仕事いうても、やっぱり水商売やと思うで。これはもうしょうがない。しょうがないけど、あの辺で働くおなごはんらは、子連れは割とあるんや。色々男と女の道やからな」

私は黙って頷きながら聞いた。

「水商売いうても、なにも如何わしいばかりやないし、普通に居酒屋もあるし、バーやクラブでしっかり働いてるおなごはんらもようけ居てはる。きっとそういうことやと思うで」

 

工場長の話は推測混じりだ。そうかも知れないと思った。テレビで深夜のスリラー番組を見ても、スポンサーはたいてい大きなクラブやキャバレーだった。普通に中学生でも想像のつく世界だ。もしそんなところで働き始めたら、ママさんはどんな風になるのだろうか。ぼんやりとそんなことを想像した。

工場長は突然私の背中をポンと叩いた。そして言った。

「どこの世界でも生き様や。かき氷やるくらい気丈なママさんやし、あんまり考え込まんでもきっと立派にやってると思うで」

元気出しやと言って、工場長は更にジュースを買ってきて振る舞ってくれた。

「あんな品のあるママさんや、そこからの話はわしもよう知らんけど、悪い風にばかり考えてもしょうがないと思うで」

ポンともう一度私の背中を叩いて、ぼんも立派になるんやでと言って、工場長は去って行った。

 

この夜店の一夜以後、私は工場長ともそれっきり会っていない。私は高校生になる頃に郊外へまた引っ越してしまった。転居の多い人生だった。

工場長の話がどうしても気になったので、私は幾日も経たぬうちにのこぎり荘をブラッと訪れ、前の広場から私たち一家が住み、そしてママさんが住んだであろう部屋の窓をぼんやり眺めた。私が居た頃と何も変わっていなかった。部屋の窓は閉められていて誰かが住んでいるのか居ないのかは知れなかった。

そのまま足を運んでドブ川沿いを歩いた。方向は見当が着いた。私も遊んだことのある畑が広がっている方にしか小屋などはありえない。逆は住宅地だった。川べりをずっと歩くと一部を川にせり出すようにして建っている小屋を見つけた。ベニヤを打ち直して意外にしっかりした感じの造りだったが、外から鎖で戸締りされて、中に人が居る様子はなかった。

そこに違いなかった。小屋の横にポツンとひとつ水道の蛇口が出ていて、その前には川から細い水路を引いて作った水溜まりがあった。この水道で煮炊きをし、水溜まりを利用して洗濯などしていたのだろうか。

しばらくぼんやり突っ立って、水溜まりの水面を眺めた。生活レベルと言える程ですらなかったろうことは容易に想像できた。やり切れない思いで、畑に転がっている小石ひとつ掴んで川に放り投げて、その場所を去った。

 

私は社会人になってしばらくは大阪で仕事をしたが、思い至って上京した。以後大阪は縁遠くなった。それからもう四十年以上になる。今、ちょっとした用事で和歌山の親戚を訪ねる途中、ふと思って大阪に立ち寄ったのだった。色々とガタのくる年齢で、膝も悪くしていて、もうそろそろ杖が必要かも知れない。人生も終わりに近くなると田舎の親戚たちとも多少のやり取りをしておく必要があった。そんな切っ掛けでもなければ、多分大阪に来ることもなかったろう。

上京してからの暮らしは大変だった。なかなか身を立てられなかったのだ。故に、何度かあった同窓会の知らせにも応答しなかった。一時は職を転々として、今は自分でデザイン関係の仕事を請け負いでしている。どうにかなってきたのは振り返れば奇跡だ。

後にちょっと興味を持って調べたみたが、あの工場長が勤めていた会社は、当時はいつ潰れるかも知れない零細企業だったが、今では各地に工場を持つ大きな会社に育っていた。工場長は重役にでもなっただろうか。

幾人、連絡を取っている人間はあるので過去の知り合いの多少のことはわかる。それによれば、転校した篠田と偶然会社で一緒になったのが居て篠田のその後を伝えてくれた。まだ五十代で胃癌で亡くなったらしい。篠田は出世したのだが、もしかしたらそれがストレスだったかも知れないとのことだった。

老いぼれてはいるが、私は篠田より二十年近く長生きしていることになる。中学生になってからはあまり話もしない関係になっていたが、成る程篠田のあの小回りの利いた性格なら出世したかも知れない。

 

懐かしい最寄りの駅から公園に向かった。大人の目から見れば随分小さな街だった。昔在った八百屋や駄菓子屋などは全て姿を消して、道筋だけを残して周辺は様変わりしていた。何度か通った食堂もなくなっていた。カレーの美味しい食堂だった。

程なくして公園に着くと、公園だけは昔と殆ど変わらなかった。遊具がなくなっていたり公衆トイレのデザインがシャレたものになっているが全体の雰囲気は変わっていない。休憩用の小さなテーブルもベンチも何度も新しいものに付け替えられたであろうが、その場所にあった。

ホームベースを置いた位置に立った。そろそろ昼に近いが、人の姿はまばらだった。公園で遊ぶ人の姿が、昔とは比較にならない程少なくなっているのだろう。

「そうだ、俺は審判をしていたのだ」

ホームベースのあった位置に立って、そこからザッと扇状を眺めた。皆の顔が蘇った。中学校を卒業してからの皆のその後を、私は全く知らない。

対角にある公園の出入り口を、ママさんと子供はゆっくりと歩いて去って行った。私と篠田は追いかけた。道路の途中まで追いかけて、そのまま後姿を見送った。差している水色の日傘が、日差しと陰の間を歩く度に、キラキラとした印象だったのがふいに思い浮かんだ。