これからは弁当が要るな、と母が言うので、まだわからない、断って帰ってくるかも知れぬからと、幸平は一掴みのパンだけをバッグに入れて出かけた。兄の洋平は隔日なので毎日ではないが老齢の母を一人にすることになった。心配だったが、それはもうどこで雇ってもらっても同じことだった。
だがそんな日々を、いったい何年続けられるだろうか。例え雇われてもそのことを考えると気が重い。母を一人にできるのは、甘く見ても精々三年くらいだろうか。その後はどうする。
しかし今は今だ。今のことだけを考えるしかない。自分が外に出ている間は火を使わぬようにして、とにかく誰が来ても玄関を開けるなと、それだけ強く言い聞かせた。母は黙って頷いていた。 その顔は無理やりな笑顔を作ってはいるがやや不安そうだった。ひとりの時に何かあっても頼るところもないが、電話くらいはできるので、もしもの時は消防を呼べといい、後は何もないことを祈るしかなかった。
自転車で十数分。すっかりそのことを忘れていたが、雨の日は大変だろうなと思った。歩けば三倍の時間がかかる。しかも半ば山道で周りは畑ばかりだ。風が吹いても遮ってくれるものがあまりない。駅から通勤する仕事の方が良いのだが…。
そんなことを考えながら工場の前に着くと、もう機械が稼働する派手な音がしていて、親父とよく似たでっぷりとした若造が階段を降りてくるのに遭遇した。先日は見かけなかったが、倅だろうか。ちょっとだけ頭を下げて自転車を留めていると偉く尊大な怒鳴るような声が飛んできた。
「なんだおめえ」
「はあ、きょうから来てみろと言うことなので」
幸平は大人しくさらに頭を下げたが、若造は怒るような顔つきでしばらく幸平を睨んでから背中を向けて行ってしまった。こういうものなのだろうか。何とも柄の悪さに言葉もない。明らかに幸平より若造だった。倅ならここで命令している立場なのだろうが、使われる側になることを考えないで尊大になっている人間を幸平はクズだと思っている。もしあんな奴に使われるならサッサと帰った方が良い。
そう思いつつも工場のなかを窺うと、これまたやたら不機嫌な顔をした婆さんと眼が合った。チンチクリンで顔もしわくちゃ。いかにもな険しい顔をしていた。気配からしてこれがカミさんだろうか。ちょこっと頭を下げると「ああ、きょうからの人ね」と言ってすぐに「そこ手伝って」と言ったっきりプイと横を向いて行ってしまった。
いきなりな話だが、そこと言われた先には先日会った大島渚似が居た。こちらは勤めるとも返事すらしないのに、しょうがないから戸惑っていると、婆さんがまたやってきた。
「山ちゃん、教えてあげて」
大島渚似は山ちゃんと呼ばれているようだ。山ちゃんは幸平を見て「ああ」と言っただけだった。
続きます。