雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

飯田木工所の赤木さん--13

この木工所は朝九時の始業から十二時までは休憩なし。トイレは適当に行く。ベルトコンベアはないので緊急では抜けるのは自由のようだ。元々そんな規模ではない。五十分程の昼休みの後午後三時には十分程の休憩があり、以後は五時まで作業を続ける。仕事が切れた時はさっさと帰る。なるべく払いを少なくするようになっていた。タイムカードなんかなくて、無造作に吊るされた台紙に自分で作業時間を記入するようになっていた。仕事が切れていたら無理して出なくて良い。かなりラフな面もあって、その方が幸平には気楽だった。

何か手伝いましょうかで始まった作業も、本当のお手伝いの感じでひとつの作業に関してはすぐに慣れてしまって次を教えてもらう。それさえ二三度やれば覚えてしまうようなことばかりだった。難しそうな仕事はあまりない。やれないのはカンナがけだけだったが、それはどうやら山ちゃんにもできないようだ。

昼食時、幸平は休憩所ではなく周辺をブラッと歩きながら持参したパンをかじった。そうしたい雰囲気だった。気分的になにかひとつけじめがつかずブラブラ歩いた。これで良いのだろうか、この状態を続けられるだろうか、仕事はどうやら辛くはないが雰囲気には馴染めないものを感じる。他になければしょうがないけれど、人生的に、ついにここへ来てしまったのかなと、少々の無念さすら感じるのだった

三時の休憩時に、あれ以来初めてトイレ男に会った。ふたりがお茶を入れている時にトイレ男が入ってきた。昼は自宅に食べに戻って帰るのでここには居ないのだった。上から下まで灰色の作業服でこれまた灰色の野球帽を被っていた。目深なのでどんな顔なのか俄かにはわからない。が、見かけない男が居ることがわかっているはずなのにこれまた何の反応も示さない。男は黙ったまま並んだ湯飲み茶碗からひとつ持って一番奥まったところに座った。幸平は何度か小刻みに頭を下げて挨拶をするでもしないでもないようにしていると鈴木さんが男に向かって声をかけた。

「きょうからの人だよ」

幸平がもう一度頭を下げると男は急に破顔したような笑い顔になって大きな口を開けて「ははあ」とだけ言った。その変化は機械仕掛けのようで、一瞬見えた口には少なくとも前歯は一本もないようだった。あんな口でどうやってものを食べているのだろうかと、一瞬そんなことを思った。

幸平には茶碗がない。じっとしていると山ちゃんが適当なのを引っ掴んで渡してくれた。

「そこにあるのを適当に使えよ、俺たちのだけは覚えといてくれ」

適当というと共用なのか、濯ぎもしない渋の着いた茶碗にお茶を入れてくれた。ちょっと気味悪かったが、せっかくなのでちょっとだけ口に入れた。明日は自分のを持って来よう。

山ちゃんと鈴木さんは取り留めのない土地の噂話をしていて、幸平はすることもなくじっとしていた。トイレ男は「ははあ」の以後声もなくじっとしていて、休憩の最後に湯飲みに残ったお茶を何故か自分の足元に捨てた。最初にここを訪れた時に見た床板がたわんでいた場所だった。どうやら毎日同じことを繰り返しているようだった。でなければそこが一か所たわんでくることはない。何故そうなっているのか、朽ちてはいるが流しもあるし普通にそこに流せば良い。だがその時は、変な人だなと思う程度だった。

休憩が終わって皆立ち上がり、ゾロゾロと黙って作業場へ向かったが、トイレ男は階段下から別棟に入った。奇妙なことに、未だ幸平は誰からも名前を訊かれていない。こんな事業所があるだろうか。

 

続きます。